著者
掛川 富康 Tomiyasu KAKEGAWA
出版者
茨城キリスト教大学
雑誌
茨城キリスト教大学紀要. 1, 人文科学 (ISSN:13426362)
巻号頁・発行日
no.51, pp.73-87, 2017

民主的なワイマール体制も30年代からその問題を露呈させてくる。ロマニスト,E. R. Curtiusは,警告の書「危機に立つドイツ精神」(32年)において,伝統的教養に対する時代の憎悪に警告を発し,その救済の視線をラテン中世に注ぎ始める。文学者Thomas Mannは,「戦闘的フマニスムス」を唱える。古典学者W. Jaegerは,パイデイアとキリスト教思想の統合を図る。フランスの歴史家H.-I.Marrouは,ホメロス以来のヒューマニズムと中世キリスト教思想のなかに,戦後の文化形成の可能性を祈念する。E. Gilsonは,そのトミズム理解を基礎に,人間のラチオナールな思惟能力のうちに人間性の基礎を求める。ボン大学のロマニスト,Curtiusは,ホメロスの叙事詩のなかに人間性の再生の原点を見ようとする。渡辺一夫は,16世紀フランスのラブレーの文学に専心し,新教と旧教の対立に見られる宗教的狂気に抗してユマニスムに視線を注ぐ。戦後に現れたヒューマニズムへの回帰は,多くの場合,ホメロスの叙事詩の中にフマニスムスと文学性の根源的連関を確認しているが,このような時代の中で,ロマニストE. Auerbachは,創世記とホメロスの叙事詩を嚆矢とする西洋の(通時的)文学史を,キケロの三文体論とキリスト教による並行的文体及び謙抑体との交錯という視点から考察する(「ミメーシス」47年)。ヘブライ・キリスト教思想の中に宿る,日常性と悲劇とを統一して理解する文体の可能性をとらえ,旧約聖書・創世記や新約聖書の日常ギリシャ語(所謂のコイネー)の中に,三文体論では見られなかった新しい現実描写の可能性を認知する(様式混合Stilmischung)。この様式混合は,後年19世紀フランス文学のリアリズム(スタンダール,バルザック,フローベール)の中で再生したとされる。10年後の「中世の読者と言語」(58年)においては,古代の教養を受領したロマンス語圏と異なってドイツ文学とその地におけるフマニスムスの不毛性が指摘される。俗ラテン語(Gregor von Tour)も未成長にとどまったとされ,カール大帝によって招来されたラテン語文化の復興も,神学・典礼・法学を担う社会上層部に限定され,文学言語としての生命力を秘めた俗ラテン語や民族語には無縁であったと判断される。18世紀後半いらいのドイツ特有の歴史主義によって,GoetheやSchillerにおいて新しい文学的覚醒が見られたが,新しい社会の現実には,無力であり,その無力さは,Ciceroの文体による(閉鎖的な)現実理解の突破を可能とした様式混合が見られない事実と対応するとされる。戦後のドイツ・ロマニストの業績の一つは,ゲルマンの地においては,文学性とフマニスムスが歴史的に未成熟であることを指摘したことであろう。
著者
掛川 富康
出版者
茨城キリスト教大学
雑誌
茨城キリスト教大学紀要. I, 人文科学 (ISSN:13426362)
巻号頁・発行日
vol.38, pp.15-47, 2004-12-25

1. 本誌先号において、ユダヤ・キリスト教思想における思惟が「言述的合理化」という特質を持つことを指摘した。これに基づいて、K.バルトのいわゆる「弁証法からアナロギアへ」の転回、CR→CD→KDへの転回の内実を見るための方法概念として「言述的合理化」を採用した。2.従来の「弁証法からアナロギアへ」と言う解釈では、アナロギアの方法で展開されたKDの思惟に含まれる弁証法的側面が充分に捉えることはできないと思われる。また、KDにおけるアナロギアしイに含まれる「弁証法」的側面は、KDいぜんにおける「弁証法」とは区別される。3.M.ルターの命題「すべての言葉はキリストにおいて、たとえそれらの言葉が同じ意味を指示しているにしても、新しい意味を獲得する」(Omniという限定辞が一般的(言述)デゥスクルスの意味論的地平を、存在論的に上昇させる点にある。同時に、その地平は、「言述的合理化」の地平と対応する。4.KDにおけるアナロギア的思惟は、三位一体論が、人間学的・倫理的側面を徹底的に規制するという点に特質があるが拙論では、この三位一体論による人間学的・倫理的側面の規制を「言述的合理化」と捉えた。この「言述的合理化」(の合理主義)は、神秘主義・弁証法的思惟への批判、無(das Nichts)の問題をテーマ化できること、さらに、改革者の政治神学の二元論、ドイツ啓蒙主義における信仰論、キリスト教的実存主義等々に対する批判を結果させた。5.バルトの思考の特質は、中世におけるラチオ概念(アンセルムス)を、人間学・倫理学の次元を一貫して規制する(ラチオナリジーレン)ものとしている点で、そのラチオ中心主義・ラチオナリスムスにあると判断できる。三位一体論がキリスト論・人間学的地平を規制するのもこのラチオナリスムスに起因する。