著者
新津 健一郎
出版者
公益財団法人 史学会
雑誌
史学雑誌 (ISSN:00182478)
巻号頁・発行日
vol.128, no.12, pp.1-32, 2019 (Released:2021-09-02)

本稿の目的は後漢時代における漢帝国の地方統治に対する辺境地域社会の反応を解明することにある。漢帝国は早くから辺境の征服地も含めて体系的・集権的統治制度を整備したが、そうした国家制度と現地地域社会との接触やその展開には検討の余地が残る。そこで、成都東御街で新たに出土した二点の後漢石碑(二世紀中期。李君碑及び裴君碑。総称して東御街漢碑)及び四世紀の地方志である『華陽国志』を材料とし、紀元前三世紀に戦国秦によって征服された西南辺境である四川地域を対象に分析を行った。 東御街漢碑は後漢蜀郡の治所にあたる現成都市の中心部でまとまって出土した。顕彰文の内容によれば、李君・裴君は郡学(儒教の宣布・教習を目的とした官立学校)を振興し、善政を敷いたとされる。先行研究に指摘されるように、この時期、豪族(大姓)は積極的に儒教を習得し、官吏・地方知識人の性格を強めていた。学術を習得する場では門生故吏や同門関係が形成された。成都に設けられた官学は史料上、前漢武帝期の蜀郡太守・文翁に帰せられ、その文教政策は四川の文化水準を引き上げたとされた。 しかし、東御街漢碑の題名を精査すると、立碑者の大部分は学術教授官であり、その姓種は『華陽国志』に蜀郡の大姓として挙げられるものだけでなく、近隣諸郡の大姓と同姓となるものが多く含まれる。このことは郡内の大姓に限らない人的結合を示し、地方長官との公的主従関係と重層する私的関係、かつ遊学を介して同郡内に限られない結びつきが存在したと想定される。その延長上には地方志編纂に現われた郷里意識に繋がる地域的結合を見通すこともできる。四川地域にとり、儒教をはじめとする政治・学術文化は国家権力により外部から移入されたものであったが、それによって出現し、成長した知識人たちの結びつきはむしろ帝国に対して遠心的作用を生み出したと考えられる。