- 著者
-
木島 孝之
- 出版者
- 九州大学
- 雑誌
- 若手研究(B)
- 巻号頁・発行日
- 2003
益富城塞群の遺構調査は外郭部を完了し、「縄張り図」(1/1000)を作製した。具体的成果として、外郭部の長城型防塁遺構の全容をほぼ掌握した。そして、幾つかピーク地形ごとに独立性の強い曲輪群が林立し、その間の尾根・谷地形に畝状竪堀群・土塁ラインを設けて曲輪群相互を連結させた「城郭群」の形態を成すことを確認した。この形態は、自律性の強い各部隊(複数の領主)が相対的に緩やかに大同団結した姿を窺わせる。確認した事項、すなわち、ごく短期間内に一挙に構築されたと考えられること、畝状竪堀群を横堀・土塁とセットで使用する点で北部九州の在地系城郭の中で最高の技術水準にあることを考え合わせると、研究当初の予見どおり、当遺構が天正14年の九州平定軍の来襲を前に、秋月氏を盟主とする北部九州国人一揆によって構築された可能性が極めて濃厚となった。ここに、城塞群の規模と仕様から、従来、文献史料の面からのみ構築されてきた結果論としての九州平定戦のイメージを大きく見直す必要が指摘できた。すなわち、豊臣軍の来襲を目前に控えた北部九州では秋月氏の下に、結束力などの質の問題は兎も角も、動員力の面では極めて巨大な国衆一揆が結成されており、初戦の戦況次第では九州平定戦は結果論にみるほど円滑に推移する状況になかったことが明らかとなった。加えて、この視点に立って改めて『九州御動座記』などの幾つかの文献史料を見直したところ、豊臣側でも秋月氏の存在を九州屈指の巨大勢力として強く意識していた様子が窺える記述も確認できた。以上の成果の概略は『益富城跡II』調査報告書(嘉穂町教育委員会、今年度末発行予定)に掲載予定である。次に、黒田氏時代に大改修された主郭部に関しては、発掘調査で出土した瓦の整理・分類を行い、鷹取城(益富城と同時期に織豊系縄張り技術で大改修され、黒田領の「境目の城」に取立てられた)の瓦との比較研究を行った。結果、両城は類似した性格を持つにも拘らず、益富城には当時の最新の瓦工集団が、鷹取城には相対的に古式な集団が動員された可能性がみえてきた。しかも縄張りの洗練度の面では、むしろ鷹取城の方が"垢抜け"した最新鋭のプランである。これらの要因について、前者は、支城普請における城持ち大身家臣の自律性の強さが投影されたものであり、後者は、慶長期の築城における縄張り(設計)と普請(施工)がまだ一体の行為として整理・統合されていない状況を示唆するものではないかと考えた。この成果は『城館資料学』3号に掲載した。