- 著者
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朱 依拉
- 出版者
- 北海道大学大学院文学研究科
- 雑誌
- 研究論集 (ISSN:13470132)
- 巻号頁・発行日
- vol.12, pp.323-338, 2012-12-26
吉田喜重映画の中では,演技する俳優が登場しない,街の風景や室内のセッ
トだけが映る,いわゆるストーリーの展開に関係しないシーン,または画面
の中に俳優がいるにもかかわらず,周りにある何かの存在があまりにも目立
ちすぎたせいでストーリーの展開が邪魔されるシーンが,しばしば撮られて
いる。観客はそれらのシーンを目の当たりにする時,よく画面の内部から一
種の不安定さ,頼りなさに気をとらわれる。筆者は画面全体に漂っているこ
のような安定しない状態を「不穏な空気」と名づける。
「不穏な空気」の成因として,まず考えられるのは,映画または映画監督の
絶対的な優位性を崩壊させる有効な方法とされる「もの」=他者の導入であ
る。吉田喜重映画に見る他者の導入は主に二種類に分けられている。一つは,
世界の無秩序さの露呈によるものである。もう一つは,映像内部からの告発
によるものである。
また,「不穏な空気」の二つ目の成因とされるのは,吉田喜重映画における
混在状態である。吉田喜重映画によく見る混在状態は,テーマ的な混在とい
う形でよく現れてくるが,そればかりとは限らない。実際,監督の映画には,
同一事物の持つ二つの性質が同時にスクリーンの上で露呈される混在も,し
ばしば見られている。
そして,見る者に不安を感じさせる特権的なものを「眼」として風景の中
に設置することによって,一見普通な風景ショットに緊張感または不安を吹
き込んだことも,「不穏な空気」の一つの成因である。
本稿は,吉田喜重映画における「不穏な空気」の成因を考察することを目
的とする。ただし,考察の対象となるのは,音声や照明などの要素を含まず,
「もの」のある風景のみである。