著者
村瀬 鋼
出版者
日本メルロ=ポンティ・サークル
雑誌
メルロ=ポンティ研究 (ISSN:18845479)
巻号頁・発行日
vol.22, pp.41-60, 2019-02-28 (Released:2019-03-18)
参考文献数
10

La pensée de Merleau-Ponty est considérée comme la philosophie exemplaire du corps propre. Mais on pourrait soupçonner son authenticité. Car d’un côté, Merleau- Ponty néglige la dimension de l’immanence du corps au profit de la transcendance (la critique henrienne), et d’un autre côté, il supprime la transcendance d’autrui en oubliant la séparation du soi rivé à son corps d’avec le monde (la critique lévinasienne). Dans cet article, nous essayons de repenser ce corps propre immanent comme un « impensé » de Merleau-Ponty, en examinant le statut du « sentiment » dans sa philosophie. Selon son « scénario cartésien » (Saint-Aubert), Merleau-Ponty a recherché l’énigme de l’union de l’âme et du corps en thématisant notre vie des « sens ». Mais ses réflexions se sont centrées sur la perception comme transcendance, tandis que c’était les sentiments comme douleur, faim et soif qui sont définitives au sujet de l’union chez Descartes. Dans la pensée qui insiste sur l’ouverture au monde, cette dimension du sentiment est toujours comme refoulée dans sa présence discrète. Mais, dans l’explication merleau-pontienne d’« une sorte de réflexion » entre mes deux mains, il s’avère qu’une main doit « se sentir » touchée par l’autre, et que ce « se sentir » immanent, « le sentiment passif du corps », c’est ce qui fait mon corps mien, ma chair chair comme « une chair qui souffre quand elle est blessée ». En mettant ce sentiment dans l’armature de chiasme comme pour ainsi dire la main dans le fameux « gant qui se retourne », on pourrait bien apprécier l’immanence et l’ipséité du corps propre aussi bien que sa transcendance accompagnant ses aventures dans le monde.
著者
北山 研二 一之瀬 正興 川上 善郎 村瀬 鋼 木村 建哉
出版者
成城大学
雑誌
基盤研究(C)
巻号頁・発行日
2008

本研究は、「らしさ」の概念を中核とする表象の問題(表現することと現れることの関係性)に関して、理論研究と実証事例研究を交差させて、国際シンポジウム、研究会、調査を実施しながら討論を重ねた。理論研究次元では、存在と現象、自然と文化、一般性と個別性という哲学的対立概念を表象次元で交錯させる「らしさ」の位置づけについて包括的な考察をした。実証研究次元では、社会心理学的事例研究によって、情報社会における事件と事件らしさ、ニュースとニュースらしさの相互関連性が実証された。文学的事例研究によって、演劇では真実らしい人物造型が重要であること、また地方色を出す文学が現地事情よりは文化的コード(らしさ)によって形成されること、さらに美術的事例研究によって、実物(真なるもの)より表象性(真らしきもの)が問題であることが、論証された。映画的事例研究によっては、「自然さ」の文法「真らしさ」が映画的リアリティーであるだけではなく、その多くが身体的反射性に由来することが確認された。さらに歴史テレビ映画や写真映画の事例研究によって、「真なるもの」と「真らしきもの」の明快な判別ができないことも証明された。文化論的事例研究つまり文化としてのらしさの研究では、それぞれの「らしさ」が文化的多層性の産物であり、その反映であるはずの実物(真なるもの)を特定できないことが確認された。こうして本研究の目的、「らしさ」という概念を軸に、表象文化の成立と変遷を「自然」の成立との交替として捉え直し、近現代の表象文化の諸展開について具体的・包括的な見取り図をつくることは、おおむね達成された。
著者
北山 研二 川上 善郎 村瀬 鋼 木村 建哉
出版者
成城大学
雑誌
基盤研究(C)
巻号頁・発行日
2004

課題研究「なぜ人々は物語なしに生きていけないのか------多メディアの中の物語の発生・展開・終焉------」を遂行するための本研究会は、理論的研究部門と事例調査研究部門とに分けて、それぞれに必要な多種多様なレクチャー・研究会(21回)、国際シンポジウム(1回)、現地調査(2回)・討論会(6回)等を3年間実施した。理論的研究としては、物語の定義、物語の成立条件、物語の存在論などが研究され、狭義の物語よりは多分野横断の物語の再定義、物語の存在論的可能性が提起された。事例調査研究では、既存の特定の分野には限定できず複数分野横断の研究となったが、あえて分類すれば、文学(4件)、メディア(5件)、映画(3件)、美術(2件)、文化制度(2件)、哲学(1件)、消費社会(1件)、演劇・オペラ(1件)、経済(1件)、心理(1件)であった。そこで論点となったのは、どの分野でも物語が大きな役割を果たし、「大きな物語」(国家論、革命改革論、資本主義、社会正義、会社至上主義、大義名分、文化制度、新旧論争、モダニスムとポストモダニスム、成功物語、共同体神話、良妻賢母、女性差別等々)とその細部にはそれとは矛盾するような無数の「小さな物語」(失権復活、隠れた天才、娯楽優先、事実優先、対象固執、恋愛至上主義、個人利益優先、個性尊重、怨恨復讐、青春回顧、年功序列、伝統墨守、自分探し等々)がせめぎ合っている、あるいは現代特有の現象として「大きな物語」に回収されない「小さな物語」の集合などが確認された。しかし、「大きな物語」の復権の可能性があることも確認された。今回の課題研究では、こうした理論的研究と事例調査研究を相互に連携させて研究会・レクチャー・討論会を組織したので、新しい視点と論点が交錯し研究に奥行きを与えることができ、多分野への総括的問題提起型の内容豊かで刺激的な報告書が作成できた。