著者
村越 一哲
出版者
日本人口学会
雑誌
人口学研究 (ISSN:03868311)
巻号頁・発行日
vol.24, pp.15-31, 1999-06-01 (Released:2017-09-12)

江戸時代の都市を対象とした歴史人口学は史料的な制約があって難しい。しかし見方を変えて,町人とは階級の異なる大名を都市住民と考えることにより,彼らの分析が可能になる。武士階級に関しては宗門改帳とはタイプの異なる記録史料である系譜を利用することができるからである。17世紀後半から19世紀前半にいたる200年間の乳幼児死亡率を求めると,それぞれ乳児死亡率は,193.2パーミル,幼児死亡率は229.6パーミルである。両者ともに,18世紀後半から上昇しはじめ19世紀半ばには対象とする期間のなかでもっとも高くなった。その原因は,乳幼児を取り巻く環境の悪化だけでなく,母体のおかれた環境の悪化にある。このような環境の悪化の具体的な内容として,消化器系疾患の広がりが考えられる。18世紀以降,都市化の進展や高い人口の流動性が,まず都市のなかで人口密度の高い町人居住地区に消化器系疾患を広めた。続いてそれが人口密度の低い武士居住地区に広がったために,大名の乳幼児が多く死亡したと考えることができるのである。
著者
村越 一哲
出版者
日本人口学会
雑誌
人口学研究 (ISSN:03868311)
巻号頁・発行日
vol.44, pp.19-32, 2009-05-31 (Released:2017-09-12)
被引用文献数
1

旗本の出生力を分析したヤマムラ(1976)は,徳川幕府が開かれて以降200年の間に旗本一人あたりの平均子ども数が著しく低下したと主張している。そしてその原因は,実質所得一定のもとで消費欲求が増大したことから生じた経済的困窮に旗本が直面したことと,階層間移動の減少により所得の増加が見込めず次三男への分知の困難さが増したことにあると説明している(「経済的困窮仮説」と呼ぶ)。この研究の問題点は,適切な方法によって旗本の出生力が求められているとは言いがたいという点である。そこで,本稿は,旗本の出生力を推計し直し,その意味するところを明確にすることを第一の目的とし,推計された出生力が上述の考え方によって説明できるか検討することを第二の目的とした。まず史料として用いる「寛政重修諸家譜」の編纂過程を概観し,そこから標本を抽出する手続きについて説明した。つぎに旗本当主のもうけた男子から,記載漏れの可能性が高い,成人するまえに死亡したと考えられる男子を除いて,旗本当主一人あたりの平均成人男子数を求めた。推計された平均成人男子数は17世紀の間に大幅に低下したが18世紀にはそれほど変化せず,その傾向は19世紀前半まで続いた。そしてその動きは大名家臣のものとほとんど同じであった。また低下後の出生力は旗本の人口を単純再生産する水準以上にあったと推測した。さらに,17世紀における出生力の低下は「経済的困窮仮説」によって説明されないことを示した。そのうえで,17世紀前半まで高かった次三男の召出可能性が世紀後半以降低下してゆき,子どもを多くもうけても彼らに武士社会のなかで生きてゆくことを保証できなくなったことが出生力低下の原因である,という「社会的制約仮説」が旗本にも適用可能であると結論した。
著者
村越 一哲
出版者
日本人口学会
雑誌
人口学研究 (ISSN:03868311)
巻号頁・発行日
vol.49, pp.1-16, 2013-06-30 (Released:2017-09-12)

本稿は,死産統計の信頼性を明治,大正および昭和戦前期を対象として検討することを目的とした。まず大阪府の「墓地及埋葬取締細則」と「産婆規則」の内容を提示し,死産の無届を減らす方向に作用したと指摘されている1884(明治17)年の「墓地及埋葬取締規則」だけでなく,1899(明治32)年に定められた「産婆規則」が「墓地及埋葬取締細則」を改正させ,それがさらなる死産の無届減少につながったのではないかと推測した。20世紀に入っても死産統計の精度が高まる余地が残されていたという主張である。では20世紀において届出改善が進んだのはいつか,そして届出が改善された後の死産統計は信頼できるのか。つぎにこれらの問いのうち,前者つまり無届が減少した時期を,死産率と新生児死亡率の動きから検討した。母体の健康状態の影響を直接受ける死産率と新生児死亡率は,上昇する場合,低下する場合のいずれであっても同じ方向に動く傾向にあることを説明したうえで,1900年代の死産率と新生児死亡率は整合的な動きをしていないことを示した。そこからいまだ届出改善が進みつつあったのではないかと推測したのである。他方,1910年以降の両死亡率の動きは整合的であることから届出改善が進んだ結果と解釈した。さらに,先に示した問いのうち,届出が改善された後の死産統計は信頼できるのかという問いについて検討した。無届が減少した後にも新生児死亡(出生後の子どもの死亡)を死産として届け出るという「届出違い」が残存していたことから,「届出違い」数を推計し,そのことをとおして1910年以降における死産統計の精度を明らかにしようと試みた。昭和戦前期を基準としたとき,登録死産数に占める推計された「届出違い」数の割合は,1910年代では最大20%,また1920年代前半では最大10%であった。明治末年から大正期においては,いまだ無視できないほどの届出違いが残存していたのである。いいかえれば,登録死産数の最大10%から20%を除けば現実に近い死産率を求められるという程度の精度であったということである。
著者
村越 一哲
出版者
社会経済史学会
雑誌
社会経済史学 (ISSN:00380113)
巻号頁・発行日
vol.69, no.5, pp.553-564, 2004-01-25 (Released:2017-06-16)

The urban graveyard theory has emphasized that mortality is higher in urban than in rural areas. Osamu SAITO has reviewed research on urban and rural mortality in Tokugawa Japan (1603〜1867), and concludes that the theory has not yet been confirmed but seems likely if Farr's law is applied. This conclusion seems to have been widely accepted. In this paper, I examine whether it is reasonable to conclude that the urban mortality rate was high by using the data for 1883 to test whether Farr's law holds in the Japanese case. The results of my analysis are as follows: First, the mortality rate depends on the distributional patterns of population density in urban areas. Second, Farr's law should only hold for areas with similar patterns. Third, since urban areas in Japan showed various patterns at the beginning of the Meiji period (1868〜1912), only large areas with similar patterns follow Farr's law. Fourth, the existence of the different patterns should lead us to expect a wider range of urban mortality.