著者
松尾 卓磨
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集 2020年度日本地理学会春季学術大会
巻号頁・発行日
pp.101, 2020 (Released:2020-03-30)

1.はじめに ジェントリフィケーションと立ち退きの関係性に焦点を置き様々な角度からジェントリフィケーション研究をレビューしている5つの論考が2018年から2019年にかけて相次いで発表された(Zhang and He, 2018; Zuk et al., 2018; Cocola-Gant, 2019; Easton et al., 2019; Elliott-Cooper et al., 2019)。いずれの論考もジェントリフィケーションの研究史の中では比較的新しく2018年と2019年という短期間に集中的に発表されたものであり、いずれの論考の表題にもジェントリフィケーションと立ち退きの両方が含まれ、さらにジェントリフィケーションによる立ち退きの類型化を行ったピーター・マルクーゼの研究(1985; 1986)への言及が見受けられる。本発表ではこれらの共通点に着目し、ジェントリフィケーション研究において立ち退き概念やマルクーゼによる立ち退きの類型化がいかに位置づけられ、どのように新たなアプローチが模索されているのかという点について検討する。研究方法としては基本的にはマルクーゼの研究内容や上記の5つの論考の内容を参照し、それらの研究において提示されているジェントリフィケーション研究における立ち退き概念や今後のジェントリフィケーション研究に必要な視点や研究方法を整理する。2.結果 マルクーゼはニューヨークを事例として不動産物件の放棄、ジェントリフィケーション、立ち退きの関係性について論じる中で、ジェントリフィケーションによって引き起こされる4種類の立ち退き、すなわち最後の居住者に対する立ち退き、連鎖的に進行する立ち退き、排他的な立ち退き、立ち退きの圧力の4つを提示した。最初の2つの立ち退きは直接的な立ち退きであり、漸進的な過程の最後の段階に着目するのか、より長い時間軸で捉えるのかという着眼点の違いに基づいて2つに分類されている。そして後者の2つは間接的な立ち退きにあたり、これらは立ち退きの内容の違いにより重点が置かれて分類されている。ジェントリフィケーション研究が進展する中では特に間接的な立ち退きへのアプローチが新築のジェントリフィケーション、小売業のジェントリフィケーション、教育での立ち退きなどの把握の際に応用されている。しかしながら、このマルクーゼによる類型化は依然として高く評価されてはいるものの、この類型化が1980年代のニューヨークの状況に基づいて提示されたものであるという点には留意しなければならない。この点に関してElliott-Cooper et al.(2019)はジェントリフィケーション研究のレビューを通じてジェントリフィケーションと立ち退きに対する多角的なアプローチの必要性を指摘している。彼らは「立ち退きの現象学的側面や情動的側面、立ち退きという経験に内在する怒りや絶望」を理解する必要があると主張し、さらにAtkinson(2015)を参照しながらジェントリフィケーションによる立ち退きを「居住者とコミュニティの繋がりを断ち切る『アンホーミング』の過程」として捉える視点を提示している。こうした視点は、ジェントリフィケーションに直面し立ち退かされる人びとのアイデンティティや心理へのアプローチを促すものであり、ジェントリフィケーションおよび立ち退きへの抵抗に関するアプローチとも密接に関連している。そしてElliott-Cooper et al.(2019)を含む近年発表された5つの論考においては、多種多様な視点や方法論に言及されながら検討されるべき重要な論点が数多く提示されており、例えば「サンドイッチクラス」や元ジェントリファイアー、公共投資によって進められる政府主導のジェントリフィケーション、そしてビッグデータを使用した立ち退きの定量的研究などにも言及されている。3.結論 先行研究の整理を通じて、近年の研究においてもマルクーゼによる立ち退きの類型化の重要性が認められており、ジェントリフィケーション研究の文脈においては依然として頻繁に参照されているということが明らかとなった。そして本研究で参照した5つの論考がその点を裏付ける重要なレビュー研究の事例であるということも確認することができた。ジェントリフィケーションの定義やジェントリフィケーションへのアプローチの多様化は同時に立ち退きの定義やアプローチの多様化も意味している。そのため今後の研究ではジェントリフィケーションの研究史における概念やアプローチの展開、そしてそれらの重要性を十分に踏まえながら、そうした先行研究で提示されている視点、概念、事例研究が応用されていくことが期待される。[謝辞] 本研究には日本学術振興会科学研究費補助金(特別研究員奨励費:課題番号18J23295)を使用した。
著者
松尾 卓磨
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集 2017年度日本地理学会春季学術大会
巻号頁・発行日
pp.100301, 2017 (Released:2017-05-03)
被引用文献数
1

1.はじめに仮に、人・もの・カネの集中化の程度と空間的・社会的な変化の度合いとが著しく大きく、そうした集中化や変化によって生み出された活気ゆえに広く地域外から話題性を獲得している地域を「沸騰地域」と定義するならば、本発表でとり上げるブリクストン(Brixton)地区はまさにこの「沸騰地域」に相当しうる存在であろう。本発表ではかつてエスニックインナーシティであった同地区が「沸騰地域」へと遷移してゆく空間的・社会的過程を辿り、そうした過程と同地区において近年急速に進行しつつあるジェントリフィケーションの関連性について検討する。 2 .「沸騰地域」としてのブリクストン地区イギリス・ロンドンのブリクストン地区は、第二次大戦以降に西インド諸島出身者を中心とする移民が数多く流入したことで知られており、現在も「White British」以外の様々なエスニック集団が全人口(約79,000人)の約65%を占めている(2011年現在)。また同地区は近年人口流入が著しい地域でもあり、2004年からの10年間で総人口は約8,200人増加し、特に20代を中心とする若い世代の流入が多く20代の人口が全体の約4分の1を占めるようになった。こうした人口流入を促す要因として考えられるのはアクセス性の良い地下鉄駅の存在と同地区の多様な空間的構成である。同地区の中心部にある地下鉄ブリクストン駅は、ロンドン都心部のターミナル駅までの所要時間が15分程度ということもあり、平日1日あたりの乗降客数は2010年以降年次平均5,400人ずつ増加している。ブリクストン地区の空間的構成は中心地域の鉄道駅と幹線道路、その周囲300mの範囲に広がる商業空間、更にその外側に広がる住宅地により成立している。中心地域の商業空間には多種多様な小売店・露店、国際飲食チェーンの店舗、映画館、コンサート会場が集積しており、近年ではブリクストン以外から訪れる若い世代向けのカフェやバー、レストランなども相次いで開業されている。そうした所謂“おしゃれ”な店舗が集約化された「ブリクストン・ヴィレッジ」や「ポップ・ブリクストン」はロンドンの若者を惹きつけるスポットとなっており、こうした多様な空間的構成が人口流入と話題性の獲得に寄与していると言える。3.インナーシティからジェントリフィケーションの典型地へ同地区のこうした現状の歴史的背景となっているのは、1948年に始まるカリブ海系を中心とする移民の流入、1970年代頃から深刻化するインナーシティ問題、そして1980年代に発生する大規模な暴動である。第二次大戦以前より同地区には一般事務員や熟練労働者向けの住宅や低廉な下宿屋、公営住宅の建設が進められてきたが、そうした住宅環境が1948年に流入し始めたカリブ海系移民の同地区での定着を促してきた。その後1950年代前後からイギリス社会では特に就職や居住の機会における移民や有色人種に対する差別が社会問題化し、さらに1970年代の経済不況はそうした社会的・経済的地位の最底辺へと追いやられた人々へと大きな影響を及ぼした。人種差別、高い失業率、経済的衰退、そして犯罪多発化といった社会問題に苦しむ典型的なインナーシティとなったブリクストン地区であったが、1980年代には人種差別的な捜査を続けていたロンドン警視庁に対する不満が爆発し、中心地区において大規模な暴動が発生する。こうした暴動の前後期すなわち1970~80年代に発行された政策文書を分析したMavrommatis(2010)は、当時のオフィシャルな言説は人種を犯罪に結びつけ、エスニック集団とブリクストン地区をスティグマ化(社会的烙印を付与)していた、と述べている。かつて移民や低い社会階層の人々の流入を促してきた住宅環境は大きく変化し、1990年代後半頃からはジェントリフィケーションが急速に進行する地域として捉えられるようになる。2000年代に入ってからの10年間で同地区の民間借家の戸数は約2倍増加し、また1930年代に建設されたある住宅団地では建替え事業に際し住民の一部が立退きを強いられている。建替え後の団地の賃料が支払い困難な水準に引き上げられたため、他地域への転居を余儀なくされ、そこで賃料を支払うために住宅給付金を受け取らざるをえない状況に陥った例も報告されている。4.結果世界を代表するグローバル都市ロンドンにおいて、戦後以降ブリクストン地区では様々な歴史的契機を経て空間的・社会的な多様性が育まれてきた。その多様性を源泉とする魅力ある空間的構成や話題性は若者世代の流入、商業空間の改良、スティグマ化の部分的解消を促したが、一方でジェントリフィケーションの誘因ともなり、低廉な住宅や店舗を一度手放すと再入居が困難になる程度まで社会的状況は改変されつつある。