著者
松尾 恒一
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.108, pp.241-254, 2003-10-31

本稿は、職能者の技術と呪術の考究を目的として、高知県東部の物部村における杣職を主たる事例として論じるものである。杣とは伐木に従事する職能者であるが、その職にともなう民俗的な慣行は木に宿るとされる木魂や、山の神やその眷属に対する信仰に基づくものが多い。伐木の際に木魂を奥山の山の神のもとへ送り返す〝木魂送り〟の法や、神木を切った際に切り株を鎮める”株木鎮め“の法がこれで、これら杣によって実践された呪的な作法は「杣法」と呼ばれた。これらの作法は、職の道具である手釿等を祭具として行われた点に特色を認めることができるが、特に形状・形態に特殊条件を備えた道具が呪術的な力を発揮するものと信仰された。当村は、「いざなぎ流」と呼ばれる民間宗教が伝承される地域としても知られるが、本宗教に取り込まれた杣法があった。本来杣職によって行われていた杣法を核として、さらに呪術的な性格の強い式法として実践された。杣法などの民俗的慣行は、斧と鋸で作業を行っていた昭和三十年代まで行われていたものであるが、チェーンソーや集材機などの機械の導入や、営林署・労働組合の利益追求のための皆伐・密植など林業の大変革の中で急速に衰退していった。なお筆者はすでに、当地域における職能者の木魂の信仰について、大工の建築儀礼を中心に論じた「物部村の職人と建築儀礼」を公にしているが、本稿はこの続考となるものでもある。
著者
松尾 恒一
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.174, pp.119-132, 2012-03-30

伝統的な木造船には一般に「船霊」と呼ばれる、船の航海安全や豊漁を祈願する神霊が祀られているが、琉球地域の木造船(刳り舟・サバニ・板付け舟、等)の船霊信仰には、姉妹を守護神として信仰するヲナリ神信仰の影響を受けている例が少なくない。このことは、すでに知られているが、本稿では、船の用材となる樹木に対する信仰に注目して、船の守護神としての女性神の信仰とのかかわりを考察する。船大工によって行われてきた伝統的な造船は、山中における樹木の伐採から始まり進水式をもって完成するが、その間、樹霊やこれとかかわる山の神に対する祭祀が重要な作法として行われる。これは奄美大島の事例であるが、八重山地域にまで目を広げれば、船の用材となる樹木を女性と認識しているものと認められる口頭伝承(歌謡)もあり、樹木に宿る樹霊と女性神との結びつきの強さが推測されてくる。ところで、船大工による伐木の際の、樹霊や山の神への断りの際には、斧のほか、墨壺・墨差し・曲尺などが重要な役割を果たす。これは、屋普請を行う大工も同様で、建築儀礼の際には山の神や樹霊に対する祭祀が重要視された。船大工や大工は、その職と関わる祭儀において職道具を祭具として用いたのであるが、ときにこれらの道具を用いて呪詛をおこなうなど、シャーマン的な呪力を発揮したりした。結びとして、こうした琉球地方の航海や船体にかかわる女性神や、造船の際の樹霊に対する信仰を、当地域との長い時代にわたる交流のあった大陸や台湾との習俗と比較した。台湾の龍船競争における媽祖信仰や、貴州省の苗族や台湾少数民族の造船儀礼など、松尾の調査した事例を中心にあげたが、今後の比較民俗に向けての視座を定めるための試論である。
著者
松尾 恒一
出版者
和光大学人文学部
雑誌
和光大学人文学部紀要 (ISSN:02881764)
巻号頁・発行日
no.28, pp.p182-170, 1993
著者
中西 正幸 三橋 健 松尾 恒一 加藤 有次 今江 広道 中西 正幸 倉林 正次
出版者
国学院大学
雑誌
基盤研究(B)
巻号頁・発行日
1995

「神社祭礼絵巻」は、それが描かれた当時における全国各地の祭礼の姿を今日に残しており、その中には現在すでに失われてしまった祭礼行事も多数描かれているであろうことが予測され、それらの所在地や描かれた内容などについての悉皆調査を行なうことによって、当時の祭礼文化を読み解くことも可能となり、今日ではすでに失われてしまった祭礼行事の古姿を復元研究して、神社祭礼史また祭礼文化史の確立を目的として本研究を開始した。「神社祭礼絵巻」(絵図・絵馬・屏風などを含めて)類の所在について、それらを有すると思われる全国約3500の神社に対して、その有無の確認作業を実施し、さらに『国書総目録』をはじめ全国の主要図書館(主として都道府県立図書館)や、民間主要図書館の蔵書目録等により、該当する資料の所在確認作業を行った。本年度に至るまで引き続き関連資料の所在につき補充調査を行なうとともに、一部の資料については所蔵者のもとに出向き、実物の調査・写真撮影なども行ったが、平成9年12月末日現在で確認出来た資料数は次の通りである。絵巻 174点、絵図 165点、絵馬 15点、壁画 2点、屏風(衝立) 13点(合計369点)この種のデータは従来皆無であり、今回の調査研究によって「神社祭礼絵巻」類の所在データが一先ず集積出来たことは、本研究の大きな成果であると考えている。今後は、このデータを活用して当初の目的である神社祭礼史・祭礼文化史を確立するために、個別資料ごとの研究を行なうとともに、更なるデータの蓄積作業をも重ねて行きたい。
著者
松尾 恒一
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.199, pp.213-232, 2015-12

神戸・横浜等の南京街を拠点とする,日本に在住する華僑・華人の歴史は,近代の開国とともに始まり,彼らのための公共墓地が設立される。神戸・横浜の中華義荘(横浜は入口に建てられる「地蔵王廟」が,霊園全体の通称となっている)がそれで,その後,神戸から分化して,京都華僑のための京都華僑霊園が黄檗宗萬福寺に開かれる。一方,近世の鎖国政策のもとでも中国との交易が続いていた長崎には,崇福寺をはじめとする唐寺や稲佐悟真寺等に,唐人墓地が併設される。これら華僑華人の墓地と,一般的な日本(人)の墓地とが大きく異なるのは,華僑墓地には「后土」「土神」として,土地神の石碑が立てられることである。神戸・横浜以上の長期,鎖国時代を含む3世紀を超える中国との交流を有する長崎では,日本人墓地でも,土神が立てられることが現在なお一般的であることなど,中国の習俗が日本に影響を与えている。これら日本の華僑華人の墓地において注目されるのは,「后土」「土神」等の土地神の石碑の立てられる位置や,墓地における祭祀の方法が,長崎,神戸・京都,横浜で異なることである。日本華僑は,福建・広東・台湾等の出身者を主とするが,本論文では,日本国内の華僑霊園の后土神の祭祀の相違が,故郷(僑郷,原籍地)の習俗を反映したものか,あるいは,日本への定住後に,それぞれが辿った歴史の中で差異を生じるようになったのかを検討,考察した。また,原籍地の習俗との相違や,故郷の習俗を現体験として保持している現代の華僑1世の記憶や意識についても検討した。日本における華僑華人の先祖祭祀として4月の清明節は,本国と同様に年中行事の中でもっとも重要であるが,そのほか神戸等で盂蘭盆行事,中元節として行われる普度勝会にも言及しつつ,日本における華僑華人の公共墓地のなかで,后土が,彼らの日本移住後に経験した大震災等の自然災害等の辛苦の歴史を共有するための役割を果たす,日本で暮らす華僑・華人にとっての共同意識の紐帯となるような,公共的な意味を帯びるようになって現在に続いていることを明らかにした。The history of Chinese living in Japan, based in Chinatowns in Kobe, Yokohama, and other cities, began with the opening of modern Japan. They built their own public cemeteries, such as Chuka Giso in Kobe and Yokohama (the latter is generally called "Jizō-ō-byō" because of the temple built near its entrance). Later, Kyoto Kakyo Reien, a cemetery for Chinese living in Kyoto, was built at Oubaku-sect Manpuku-ji Temple, separated from Chuka Giso in Kobe. Meanwhile, in Nagasaki, which continued trades with China even during the seclusion period in the early modern times, Chinese tombs are located in Japanese cemeteries at Chinese temples(e.g., Sofuku-ji Temple), Inasa-Goshin-ji Temple, and other temples. One of the major differences between these Chinese cemeteries and general Japanese cemeteries is that the former has a stone monument of the gods of earth called "HouTu (Shen)" or "Tu Shen". In Nagasaki, which has a longer history of exchanges with China (i.e., over three centuries) than Kobe and Yokohama do, Chinese culture has had a large impact on Japanese cemeteries; for example, it is now very common to build a monument of the gods of earth in Japanese cemeteries in the city. Another fact worth noting about the cemeteries of Chinese-Japanese, who are mainly from Fujian, Guangdong, and Taiwan, is that the location of such a stone monument, as well as burial rituals, varies between Nagasaki, Kobe/Kyoto, and Yokohama. This paper examines whether these differences were caused by the difference of their homelands or arose after they settled in Japan due to the difference of their experiences. Moreover, this paper analyzes the differences between the customs of Chinese-Japanese and those of their homelands as well as the memories and attitudes of current first-generation immigrants who have actually experienced the customs of their hometowns. In particular, this paper examines the Qing Ming Festival held in April to honor ancestors (the most important festival in the year for Chinese not only in Japan but also in the Mainland and Taiwan) as well as Fudo-shoe held as a Chinese Bon Festival in Kobe and some other cities. Thus, this paper reveals that in Chinese cemeteries in Japan, the deity of earth is still honored today while acquiring a public meaning as it is playing a certain role in building a sense of community among the Chinese living in Japan and sharing the experience of ordeals, such as great earthquakes and other natural disasters, after their settlement in Japan.
著者
松尾恒一著
出版者
岩田書院
巻号頁・発行日
1997
著者
松尾恒一著
出版者
岩田書院
巻号頁・発行日
1997