著者
佐合 純造 松浦 茂樹
出版者
Japan Society of Civil Engineers
雑誌
土木史研究 (ISSN:09167293)
巻号頁・発行日
vol.19, pp.127-137, 1999-05-01 (Released:2010-06-15)
参考文献数
32

The government, which had established a river improvement plan in 1925, started improvement projects in 1930 on the Asahi River. Main purpose of the project was to improve the inland navigation system as well as flood control City planning law was applied to Okayama city in 1923.Since the navigation system of the downstream of the Asahi River was very important for the urban development, it was asserted that the downstream of the Asahi River should be turned into a canal.The Hyakken. River had been diverged from the main stream of the Asahi River in the 1600s.The people of Okayama raised objections to the original plan, and besides, there was the intense struggle with the improvement plan between those who lived in the area near the main stream and those who lived in the area near the diverged channel.Finally, the Hyakken River was officially designated as a diversion channel in the plan, and the main stream of the Asahi River was improved to serve the needs of navigation system as well as a flood flow channel.
著者
岩屋 隆夫 松浦 茂樹 望月 誠一
出版者
水利科学研究所
雑誌
水利科学 (ISSN:00394858)
巻号頁・発行日
vol.53, no.5, pp.44-67, 2009

扇状地河川の一つ、富士川右支川釜無川の扇頂左岸に築堤されたのが著名な信玄堤である。この信玄堤を原型とする釜無川左岸堤は、明治29年の洪水で建設以来、初めて破堤した。当該水害の問題点などは、既に岩屋が明らかにしているところであるが、この明治29年の時点で、釜無川左岸堤は、既に連続堤防となっていた。では、不連続堤また霞堤の代表格として各種論文等に記載されることが多い釜無川左岸堤は、どのような理由で連続堤防へと変貌したのか。本論は、かかる釜無川左岸堤の連続化の築造経緯を明示することによって、富士川明治改修の特徴を明らかにする。信玄堤の連続化の経緯等は、これまで明らかにされたことが無いから、この点において本論の意義がある。
著者
松浦 茂樹
出版者
水利科学研究所
雑誌
水利科学 (ISSN:00394858)
巻号頁・発行日
vol.58, no.1, pp.143-168, 2014

明治43年(1910)8月,関東地方を中心に東日本で大水害が生じた。この対策として政府は北海道移住を呼びかけた。この呼びかけに,渡良瀬川支川思川下流部に位置する栃木県下都賀郡から66戸210名が応じた。彼らは,44年4月,現在の北海道常呂郡佐呂間町に入植し,その土地を「栃木」と命名して開墾を進めていった。明治時代,水害罹災者が北海道へ移住するのは珍しいことではなかった。明治22年の奈良県十津川災害では,十津川村から約640世帯,約2,600人が移住し,新十津川村を開いたことはよく知られているが,富山県の常願寺川水害,岐阜・愛知県の木曽川水害でも被害者は新天地を求めて移住した。また40年の富士川大水害後も,山梨県から200戸以上の移住者が北海道に向かっている。ところで栃木県下都賀郡は,明治20年頃から35年にかけて足尾銅山から排出された廃鉱(廃棄された銅分を含む土石)によって鉱毒被害が生じた地域であった。また,佐呂間町に移住した66戸の中には10数戸の元谷中村出身者がいた。このため今日,度々,この移住は足尾鉱毒事件と結び付けられて述べられている。たとえば,昭和57年(1982),開拓70周年を記念して「栃木のあゆみ」が栃木開基開校七十周年記念協賛会から刊行されたが,その冒頭に「(栃木集落は)栃木県人の皆様が足尾銅山の鉱毒に追われ,北海の新天地に永住の地を求めて移住されました」と述べている。つまり栃木集落に移住してきた人々を足尾鉱毒の被害者とし,その移住を足尾鉱毒事件の一環としてとらえている。さらに,政府による「強制移住」との主張もある。
著者
松浦 茂樹
出版者
水利科学研究所
雑誌
水利科学 (ISSN:00394858)
巻号頁・発行日
vol.35, no.2, pp.p47-79, 1991-06