著者
水谷 智彦
出版者
日本教育社会学会
雑誌
教育社会学研究 (ISSN:03873145)
巻号頁・発行日
vol.98, pp.177-196, 2016-05-31 (Released:2017-06-01)
参考文献数
33

本稿は,明治前期に刊行された「学校管理法書(以下,「管理法書」)」中の罰に関する記述を分析し,そこに描かれた教師像とその変容過程を解明するものである。「管理法書」は,当時の教育知識を主導的に形成した師範学校関係者により書かれた書物で,教員志望者へ学校運営・管理方法を説明する役割を担っていた。 本稿では,学校における罰を,周縁的な存在である生徒の逸脱行動への処遇として位置づけた。そのうえで「管理法書」中の罰の記述を分析し,教師がいかに生徒の逸脱を定義し,それに処遇するよう要請されたのかを考察した。分析には,バーガーとルックマンが世界を維持するための概念機構として理論化した治療と無効化を用いた。 分析の結果,罰は1880年代の逸脱行為を排除する無効化から,90年代の逸脱者の矯正・訓練をおこなう治療へと変化し,それにともない,教師像も裁判官から医者へと変容したことが示された。また,この変化は森有礼の教育政策である「人物査定」の要請と廃止を契機に普及した「性質品評表」という生徒の診断装置の登場によってもたらされたことが,「管理法書」から明らかになった。 最後に本稿の二つの知見を述べた。その一つは,明治前期には人びとの生活世界の中心ではなかった学校が,世界を維持するための概念機構を用意しはじめていたことである。またもう一つの知見として,その概念機構が国家の政策ではなく,教育知識の担い手により準備されていたことを論じた。