著者
沼田 彩誉子
出版者
日本中東学会
雑誌
日本中東学会年報 (ISSN:09137858)
巻号頁・発行日
no.28, pp.127-144, 2013-01-05

戦前・戦中期において、日本および日本占領下にあった満州・朝鮮半島に居住していたタタール人の多くは、戦後アメリカやトルコへと渡った。両国では2012年現在も、彼らや彼らの家族が暮らしている。本稿では、こうした極東出身のタタール人のうち、アメリカ合衆国カリフォルニア州サンフランシスコ・ベイエリア(以下ベイエリア)へ移住した在米タタール人に焦点をあてる。聞き取り調査を中心に、戦前・戦中期日本での生活、戦後の極東地域からの移住、およびベイエリアにおける現況をまとめる。従前「在日タタール人」と呼称される彼らは、戦前・戦中期における日本の「回教政策」と深く関わる存在である。一例をあげれば、早稲田大学に保管される大日本回教協会寄託資料には、彼らに関する文書・写真資料が所蔵されている。しかしながら「在日タタール人」の多くが戦後、極東地域から移住したために、彼らの存在、あるいは彼らの所有する資料は、日本では長らく忘却されてきた。アメリカやトルコに暮らす極東出身のタタール人や彼らの家族への聞き取りにより、既存文書・写真の特定や新規資料発見が大いに期待される。関係者の逝去・高齢化が進むなか、戦前・戦中期に関わる聞き取りおよび写真や書簡など私文書の調査は、喫緊の課題である。このとき、戦前・戦中期における「回教政策」が独善的なものであった事実を忘れてはならない。そのため、先行研究の多くは、「在日タタール人」を「回教政策」の対象や道具として扱ってきた。しかしながら、戦前・戦中期の日本とイスラーム関係の新たな理解を目指すとき、当時の「在日タタール人」と日本との関係が必ずしも良好だったわけではないにしても、彼らの視点から改めて日本の「回教政策」を評価することが求められる。そのためには第一に、現在の状況を正しく把握・理解し、インフォーマントとの関係を慎重に構築することが不可欠である。本稿は、彼らの移住経験に着目しつつ、聞き取り・資料調査を通じてその歴史を見直す作業への、第一歩として位置づけられる。本稿で扱うデータは、2012年4月25日から5月7日にかけて筆者が行ったベイエリアでの調査に基づくものである。日本での生活や移住の経験、ベイエリアにおける在米タタール人の状況について、合計9名の関係者への聞き取りを中心とする、フィールドワークを行った。日本では、東京、名古屋、神戸、熊本がタタール人の主な居住地となり、組織や学校、モスク、印刷所などが設立された。タタール人の流入が始まった1920年代当初、クルバンガリーがコミュニティ形成のイニシアチブをとった。しかし1933年にイスハキーが来日すると多くのタタール人は彼のもとに集まり、東京ではクルバンガリー派とイスハキー派の対立が起こるようになった。イスハキー、クルバンガリーがともに離日した後は、イブラヒムがコミュニティの指導者とされた。日本の戦局悪化に伴い、タタール人の多くは軽井沢や有馬温泉へと疎開を強制された。モスクや学校が空襲の被害を免れたため、タタール語による教育やタタール人の集まりは戦後も継続された。しかし1953年のトルコ国籍付与に伴い、彼らの大部分はトルコやアメリカへと渡っていった。極東からベイエリアへの最初の移住は、1923年までさかのぼることができる。日本で羅紗の行商を行っていたタタール人の一部が、関東大震災で被災し、渡米したのである。しかし、戦前のアメリカ移住は少数で、移民の数が増加したのは、戦後であった。終戦後のアメリカへの移住は、大きく2つのパターンにわけることができる。すなわち、極東からアメリカへ直接移住した場合と、トルコでの生活を経て、アメリカへと移住した場合である。いずれの場合も、終戦後に始まった極東からの出移民は、1950年代から60年代に集中している。1917年のロシア革命を機とする避難民を第一世代とするなら、第二世代、すなわち日本、満州、朝鮮半島を出生地とする彼らの子どもたちが、親や兄弟、結婚相手とともに、あるいは単身でトルコやアメリカへと移住した。2012年現在、ベイエリアでは、移住経験を持つ60〜80歳代の第二世代、第三世代にあたる米生まれの30〜50歳代の子どもたち、第四世代にあたる20歳代以下の孫たちが暮らしている。ベイエリアでは1960年に、在米タタール人の組織として「アメリカン・トルコ・タタール・アソシエーション」(American Turko Tatar Association。以下ATTAと略)が設立された。2012年5月現在、ATTA全体では会費納入者、シニア、子どもを合計して263名の極東出身の在米タタール人とその家族がおり、このうち187名がベイエリアに居住している。ATTAを設立し、集まりの場ではタタール語での会話がなされていた第二世代に比べると、第三世代のタタール語習得率やタタールへの関心、集まりへの参加率には、差がみられる。第二世代の高齢化による世代交代が進む今、タタールの言語や文化の保持は重要な課題となっている。カリフォルニア州コルマのサイプレス・ローン記念公園には、ATTAが購入、管理する4か所のムスリム墓地がある。合計302の墓のうち、160は埋葬済み、142はすでに購入され、使用者が決まった状態である。1962年に亡くなった人物が、この墓地へ最初に埋葬された。在米タタール人に関する今後の課題は次の2点に集約される。(1)第二世代へのさらなる聞き取り調査、(2)個々人が所蔵する写真、書簡などの私文書資料の探索とそれら資料に関する情報の収集である。