著者
津田 ヨランダ・アルファロ Yolanda Alfaro TSUDA
雑誌
神戸女学院大学論集 = KOBE COLLEGE STUDIES
巻号頁・発行日
vol.53, no.2, pp.165-174, 2006-12-20

1956年7月23日、「サンフランシスコ講和条約」(1951年)を踏まえ、日本とフィリピンの間に「賠償協定」が発効した。この国交回復50周年を迎えて、2006年は「比日友好年」を祝う行事が行われている。本稿は2部からなる。前半は戦後の比日関係における賠償協定の意義とインパクトについて、後半は比日友好通商航海条約の重要性についてである。実は、「太平洋戦争」は両国間では、1972年まで続いていた、と言える。フィリピン上院は同条約を12年間も批准しないままでいたからである。このことは、歴史書でも語られることがほとんどなく、人々の忘却のかなたに埋もれている。本稿は、賠償協定が日本の東南アジアにおける影響力の再建にいかに重要であったかの理由を論じる。大規模被害を与えた日本版ホロコーストの存在にもかかわらず、日本は賠償により、旧敵国で味方を獲得することに成功したのだ。すなわち同協定は、1)戦後のアジア地域における日本の国際関係及び経済的・政治的環境整備の基盤を形成し、2)戦前の人脈を利用し外交関係を再構築し、3)総額10億ドルを超える資本財と役務の賠償支払いは地域における通商活動を継続させ、日本経済に利益をもたらし、4)賠償支払いは日本の援助をアジアに集中させることとなり、発展途上国への日本のODAの原型となり、5)賠償受入国における土地所有と製造業を基礎とする伝統的なエリート層存続を助け、同時に賠償へのアクセスを得ることによって新興資産家を形成した。彼らが後の経済的政治的エリートとなったのである。
著者
津田 ヨランダ・アルファロ
出版者
神戸女学院大学
雑誌
女性学評論 = Women's studies forum (ISSN:09136630)
巻号頁・発行日
vol.21, pp.93-101, 2007-03-31

日本の出入国や定住についての歴史的経験は、米国、ドイツ、フランス、イタリアなどの他の先進工業諸国と比べて比較的浅い。しかし、この数10年間の日本は、多くのニューカマーとして韓国人、中国人、ブラジル人、フィリピン人、その他を受け入れることとなった。にもかかわらず、かれらに関する法制度や政策には整合性がない。サポートシステムも弱く、日本人の間でかれらの存在について愛憎こもごもの態度が根強く残っている。ニューカマーの中では、おそらく最も早い時期に日本のイミグレーションという扉を開けたのがフィリピン人である。現在、日本には20万人ほどのフィリピン人がおり、その内の9割は女性である。本研究は日本の「国際化」およびその市民社会の変革に寄与したフィリピン人に焦点をあてる。フィールドワーク(インタビューと写真撮影を含む)を通して、かれらの、「1世」としての日本での生活、家族そしてコミュニティーを記録し考察していく。