著者
海野 大地
出版者
公益財団法人 史学会
雑誌
史学雑誌 (ISSN:00182478)
巻号頁・発行日
vol.130, no.6, pp.39-62, 2021 (Released:2022-06-20)

党の正史である『立憲政友会史』は、政友会院外団の成立を一九〇三年一二月とした。しかし一九〇〇年の発会以来、すなわち初期政友会(伊藤博文総裁期)において院外団は活発に活動した。その背景には党組織の不安定があり、安定した政党組織の確立は政友会が桂園体制の一翼を担う前提となった。 本稿は、政治史・政党史研究の枠外におかれてきた院外の動向に着目し、政友会院外団の成立過程を検討することで、政友会の組織構造や党幹部との関係から院外団を位置づけなおすことを試みる。その目的は、第一に院外団の検討を通して政友会の組織強化過程を示すことで同党が統治主体化する前提を明らかにし、第二に院外団の意義と限界を示し従来の院外団イメージの再検討をはかることにある。 本稿の成果は以下のとおりである。初期政友会における院外団は、議会を中心に離合集散した代議士経験者と代議士予備軍・壮士の連帯であった。院外団は〈硬論による党幹部との一致〉を一貫して戦略とし、地域利害の先鋭化が招く代議士の統制困難に対峙することで、党本部と地方支部の間で地域利害を束ねる広域秩序であった地方団体とともに、党組織を支える中間団体として位置づく。 初期政友会の終点となった一八議会の妥協問題は、院外者を自由党再興路線(脱党)と官民調和受容路線(留党)に分けた。政友会院外団の成立は、後者が組織化した結果であり、硬派が逸脱行為を自重する体制内化傾向を伴った。すなわち政友会院外団は〈体制内硬派〉として成立をみる。 かかる成立過程から、院外団の意義は〈内向きの暴力〉をともなう組織維持志向が党組織の安定化を促す点にあり、それが党幹部による硬派利用に繋がったことが示される。ただしその反面、党組織の安定は組織維持の必要を減退させ、桂園体制下で院外団活動は停滞する。これは党の意思決定の外に位置づくがゆえに地方組織を統合できなかったこととともに院外団の限界となった。