著者
深澤 秋人
出版者
関西大学文化交渉学教育研究拠点(ICIS)
雑誌
周縁の文化交渉学シリーズ5 『船の文化からみた東アジア諸国の位相―近世期の琉球を中心とした地域間比較を通じて―』
巻号頁・発行日
pp.37-48, 2012-01-31

近世琉球の首里王府は、那覇と鹿児島を結ぶ鹿児島航路に楷船・運送船・馬艦船、福州とのあいだの福州航路には進貢船や接貢船などいずれもジャンク船タイプの定期便、ほかにも臨時便を派遣していた。両航路の乗船者のなかでも、船舶乗組員である「船方」は、責任者である船頭、船頭を補佐する佐事、熟練者と思われる定加子、水主などから構成されていた。出身地は那覇や久米村などの町方(都市部)、慶良間島(渡嘉敷間切と座間味間切)と久高島(知念間切)の島嶼部に限定される。 本稿では、いずれも臨時便であるが、1734年に福州に派遣された護送船の「船方」、1850年代に鹿児島に派遣された飛船(飛舟)の乗組員について、基本的な検討を加えた。 前者では、佐事と水主の人選が短期間で行われたこと、その人数はのちの規定より小規模であったこと、那覇の渡地村と久米村出身の経験者が多かったことなどを明らかにした。 後者では、小型の馬艦船とくり舟五艘組が飛船として用いられていたこと、船頭は久高島の出身者が多いこと、くり舟五艘組の乗組員の人数は15人に固定され、経験豊富な久高島出身者で構成され、その航跡も特徴的であることを明らかにした。さらには、夏楷船の「船方」のなかに、久高島出身者の集団が形成されていた可能性をも指摘した。