著者
チャン・ドゥック アイン・ソン 西村 昌也 上田 新也
出版者
関西大学文化交渉学教育研究拠点(ICIS
雑誌
周縁の文化交渉学シリーズ5 『船の文化からみた東アジア諸国の位相―近世期の琉球を中心とした地域間比較を通じて―』
巻号頁・発行日
pp.63-88, 2012-01-31

17‒18世紀の中南部ベトナムは、広南阮氏支配のもと、造船に関する保護優先政策がとられ、国家の造船廠に船大工などの専門職人を匠兵制度に組織し、造船業を振興して、入植の歴史の新しさにもかかわらず、北部ベトナムに劣らないほどの造船技術力を身につけた。また18世紀半ば以降の南部ベトナムから中国への米穀輸出も造船振興に一役買っている。 18世紀末、西山朝に反抗する水軍整備のため、阮暎(後の嘉隆帝)は、南部のサイゴン(現ホーチミン市)やメコンデルタを本拠地にして、西洋船購入による造船技術研究を行い、活発な造船を行った。さらには造船のための材木資源開拓なども行い、同地域はアジアでもとも活発な造船地帯に成長した。 阮朝成立後、嘉隆帝は全国に造船工廠を設け、楹繕司管理の下、新造や修理を行った。そのなかで、都フエの郊外清タインフオック福社は、最も大きい造船工廠があったことで有名である。阮朝は、皇帝の巡幸やその随伴行、水軍、物資の運搬、各公務などに応じて、細かく船の型式やサイズなどを定め、また、管理・課税制度も設けている。また、明命帝期には、外装を銅板で覆った裏銅船や蒸気船(汽機船)などのように、西洋造船技術を模倣して行われたものもある。しかし、嗣徳帝期以降、西洋船の流入などにより、ベトナム自身の造船技術は停滞し、船舶は購入に頼るようになり、物資運搬なども華僑などに委託された。
著者
小嶋 良一
出版者
関西大学文化交渉学教育研究拠点(ICIS)
雑誌
周縁の文化交渉学シリーズ5 『船の文化からみた東アジア諸国の位相―近世期の琉球を中心とした地域間比較を通じて―』
巻号頁・発行日
pp.103-121, 2012-01-31

主に江戸初期から幕末にかけての日本の海運や造船にスポットをあて、これまでの研究成果をもとに、それらの特徴について考察する。 江戸初期、朱印船貿易など海外との活発な交易が展開され、洋式船や中国式の船(ジャンク)も建造された。しかし、鎖国政策がとられて後、一般商船は外洋航海の必要が無くなり、それらの形式の船はほとんど建造されなくなった。その結果、内航海運に適した日本独特の(一般に千石船と呼ばれる)弁才船や、様々な川船等が建造されるようになった。これらは、日本の沿岸航路の整備とも相俟って、海運の隆盛をもたらし、江戸期の重要な経済インフラを構成した。特に弁才船は当時を代表する木造船で、千石積み級の船も普及し一度に大量の物資を輸送できた。本論文では弁才船の船体構造や材料についての特徴について述べるとともに、東アジアとの技術上の関連性にも言及する。また、和船にまつわる儀礼や意匠など、その文化的な一面についてもふれる。
著者
李 哲漢 李 恩善 篠原 啓方
出版者
関西大学文化交渉学教育研究拠点(ICIS)
雑誌
周縁の文化交渉学シリーズ5 『船の文化からみた東アジア諸国の位相―近世期の琉球を中心とした地域間比較を通じて―』
巻号頁・発行日
pp.89-101, 2012-01-31

朝鮮時代の船舶、つまり「韓船」は、伝統的かつ独特の形態を有し、航海の目的に合わせて緻密に設計され、建造された。朝鮮時代の船舶については、朝鮮側の文献史料や日本の絵図、西洋人の記録などによって知ることができる。水中発掘調査も進められているが、いまだ朝鮮時代の船舶は見つかっていない。 朝鮮時代における輸送活動の中心は、川や海を行き来して税穀を運搬する漕運船であった。後期には商業の発達にともなって民間の船舶活動がさかんになり、朝廷では海税の管理のため、船舶の保有状況の把握、船舶区分などを進め、管理体系を整えていった。 一方朝鮮時代には、周辺国の海禁政策や、海難事故・密貿易の防止を理由に、朝鮮通信使以外の国外航行が禁じられていた。そのため外洋への航海技術はさほど発達しなかったものと思われる。
著者
チャン・ドゥック アイン・ソン 西村 昌也 上田 新也
出版者
関西大学文化交渉学教育研究拠点(ICIS
雑誌
周縁の文化交渉学シリーズ5 『船の文化からみた東アジア諸国の位相―近世期の琉球を中心とした地域間比較を通じて―』
巻号頁・発行日
pp.63-88, 2012-01-31

17‒18世紀の中南部ベトナムは、広南阮氏支配のもと、造船に関する保護優先政策がとられ、国家の造船廠に船大工などの専門職人を匠兵制度に組織し、造船業を振興して、入植の歴史の新しさにもかかわらず、北部ベトナムに劣らないほどの造船技術力を身につけた。また18世紀半ば以降の南部ベトナムから中国への米穀輸出も造船振興に一役買っている。 18世紀末、西山朝に反抗する水軍整備のため、阮暎(後の嘉隆帝)は、南部のサイゴン(現ホーチミン市)やメコンデルタを本拠地にして、西洋船購入による造船技術研究を行い、活発な造船を行った。さらには造船のための材木資源開拓なども行い、同地域はアジアでもとも活発な造船地帯に成長した。 阮朝成立後、嘉隆帝は全国に造船工廠を設け、楹繕司管理の下、新造や修理を行った。そのなかで、都フエの郊外清タインフオック福社は、最も大きい造船工廠があったことで有名である。阮朝は、皇帝の巡幸やその随伴行、水軍、物資の運搬、各公務などに応じて、細かく船の型式やサイズなどを定め、また、管理・課税制度も設けている。また、明命帝期には、外装を銅板で覆った裏銅船や蒸気船(汽機船)などのように、西洋造船技術を模倣して行われたものもある。しかし、嗣徳帝期以降、西洋船の流入などにより、ベトナム自身の造船技術は停滞し、船舶は購入に頼るようになり、物資運搬なども華僑などに委託された。原著:チャン・ドゥック アイン・ソン翻訳:西村昌也、上田新也
著者
深澤 秋人
出版者
関西大学文化交渉学教育研究拠点(ICIS)
雑誌
周縁の文化交渉学シリーズ5 『船の文化からみた東アジア諸国の位相―近世期の琉球を中心とした地域間比較を通じて―』
巻号頁・発行日
pp.37-48, 2012-01-31

近世琉球の首里王府は、那覇と鹿児島を結ぶ鹿児島航路に楷船・運送船・馬艦船、福州とのあいだの福州航路には進貢船や接貢船などいずれもジャンク船タイプの定期便、ほかにも臨時便を派遣していた。両航路の乗船者のなかでも、船舶乗組員である「船方」は、責任者である船頭、船頭を補佐する佐事、熟練者と思われる定加子、水主などから構成されていた。出身地は那覇や久米村などの町方(都市部)、慶良間島(渡嘉敷間切と座間味間切)と久高島(知念間切)の島嶼部に限定される。 本稿では、いずれも臨時便であるが、1734年に福州に派遣された護送船の「船方」、1850年代に鹿児島に派遣された飛船(飛舟)の乗組員について、基本的な検討を加えた。 前者では、佐事と水主の人選が短期間で行われたこと、その人数はのちの規定より小規模であったこと、那覇の渡地村と久米村出身の経験者が多かったことなどを明らかにした。 後者では、小型の馬艦船とくり舟五艘組が飛船として用いられていたこと、船頭は久高島の出身者が多いこと、くり舟五艘組の乗組員の人数は15人に固定され、経験豊富な久高島出身者で構成され、その航跡も特徴的であることを明らかにした。さらには、夏楷船の「船方」のなかに、久高島出身者の集団が形成されていた可能性をも指摘した。