著者
渋谷 治美
出版者
埼玉大学教育学部
雑誌
埼玉大学紀要 教育学部 (ISSN:18815146)
巻号頁・発行日
vol.58, no.2, pp.217-232, 2009

本論考は2008年11月15日(土)に九州大学文学部にて開催された日本カント協会第33回大会の一般研究発表の部で口頭発表した研究を文章化したものである。口頭発表時の題は「『観念論論駁』再論」であった。「再論」ないし「再考」と題した所以は、筆者はこれまで再三再四カントの「観念論論駁」について論文等で論じ、また各種研究発表の機会に口頭で論及し、またカント研究の同志とのあいだにおける私信においても意見を取り交わしてきたからである1)。それらを踏まえたうえで、上記した昨年の口頭発表と本稿とによってこの論題での研究に一区切りつけたいと思う。今回の学会での口頭発表の制限時間は25分であった(その後の質疑に15分が宛がわれた)。これはおよそ400字詰め原稿用紙にして25枚分に当たるが、今回これを大幅に上回って文章化する。Über Kants Widerlegung des Idealismus probiere ich in dieser Abhandlung zwei folgende neue Interpretationen zu zeigen.(1)Der Satzgegenstand des Lehrsatzes von der Widerlegung lautet:"Das blosse, aber empirisch bestimmte, Bewußtsein des meines eigenen Dasein"s( B275). Nach meiner Interpretation wird er von zwei Elementen komponiert, die um das Bewußtsein des meines eigenen Daseins betreffen. Sie sind nämlich A)das bloße Bewußtsein meines eigenen Daseins, und B)das empirisch bestimmte Bewußtsein meines eigenen Daseins. Das erste bedeutet, hier auch meiner Interpretation nach, die reine Apperzeption, und das letzte die empirische Apperzeption. Warum bindet Kant diese zwei Bewußtsein von verschidenen Arten mit"abe"r ? Hier können wir finden den Prozeß von〈Entstehung des Erscheinungs-ich〉und den von〈Entstehung der Erscheinung〉. Diese zwei Prozeße haben gegeneinander gegensätzliche Richtungen, und aber sind parallel. Der erste Prozeß zeigt〈die Bedingungen der Möglichkeit der Erfahrung überhaupt〉, und der zweite〈die Bedingungen der Mög lichkeit der Gegenstände der Erfahrung〉. Hier können wir den ursprün glichen Charakter der Vergegenstän dlichung des Menschen bei Kant finden.(2)In der Widerlegung finden wir 7Male das Wort"etwas Beharrliche"s und nur einmal dasihm verwandtschaftliche Wort "die Beharrlichkeit". Was bedeuten diese zwei? Bedeuten sie vielleicht das Ähnliches? Nein! Etwas Beharrliches ist Materie oder Ding im Raum außer mir, unddagegen spielt die Beharrlichkeit im inneren Sinne gleichsam die Rolle von Repräsentant der Kategrie von Substanz.Natürlich trreffen(1)und(2)einander am Ende an dem denselben Punkt von Kants Gedanken.
著者
渋谷 治美
出版者
埼玉大学
雑誌
基盤研究(C)
巻号頁・発行日
2003

研究期間中に、フィヒテ『1794年の知識学』、シェリング『人間的自由の本質』、ヘーゲル『大論理学』を精読した。本研究の狙いとして、これら三人の哲学思想の底流にスピノザ、カントとの関連を探り、それがそれぞれの自由論、価値論にどのような影響を及ぼしているか、スピノザを経てカントが直面した価値ニヒリズムを彼らがどのように受け止め処理したか、を探るつもりであった。この観点からすると、率直に言ってこの三年間の研究の到達点は、期待にはほど遠いものであった。まずフィヒテのこのテキストには価値ニヒリズムに関連するような記述が断片としてすら見いだすことができなかった。フィヒテの他の時事的な文献からそのようなニュアンスを読み取っていたので、この点は意外かつ落胆した。次にシェリングについていえば、このテキストは結局は価値ニヒリズムの回避の試みであるといえるとは思うが、スピノザ、カントとの関係を匂わす文脈をここに発見することができなかった。最後にヘーゲルのこのテキストは聞きしに勝る難解な書で、意味を追うだけでも辛酸を極めた。しかも価値論に関係しそうな論述を見いだすことができなかった。ということで、本研究の主題的仮説は間違っていないと思うが、今回は選んだテキストが適切でなかったと反省している。反面、副次的な成果は多々あった。まず、フィヒテは思ったほどにはカントの「純粋統覚の外界への自己実現」論を真正面から受け止めていないこと、逆にヘーゲルの弁証法はフィヒテの論理展開の仕方と紙一重であること、シェリングの神論は単純なキリスト教護神論とはいいきれないこと、ヘーゲルは『大論理学』の概念論への導入の箇所でスピノザを高く評価しており、またカントについて随所で適切な批評を下していること、を発見したことは大きな成果であった。というわけで、「ドイツ観念論と価値ニヒリズムの問題」という研究テーマでの仕事は、私にとって仕切り直しとなった。今後中長期的に探求していきたい。