著者
渡部 宗助
出版者
国立教育研究所
雑誌
一般研究(C)
巻号頁・発行日
1988

1.戦後改革期の児童観と児童文化概念の検討は、戦前・戦中のそれを抜きには考えられない。戦前・戦中の支配的児童観・児童文化概念は日本少国民文化協会(昭和16年12月創立)とその機関紙『少国民文化』に集約される。それは、資本主義的俗悪「児童読物」に対する官民一体の「改善・浄化」運動(昭和13年)と「大東亜戦争」遂行のための児童政策の結合体として形成された。それは明らかに「大人が子どものために与える文化財諸領域の総和」と表現すべきものであり、且つ暗黙裡に「学校文化」を含めないものとするところに特徴があった。2.戦後改革期の児童観と児童文化概念も基本的には、政策的にも、運動の面でもそれを継受するものであった。そこに見られる新しい「変化」は、スローガンが「大東亜戦争」遂行から「文化国家・平和国家」建設へとかわったこと・もう一つは子どもを人格・人権の主体として把える自覚的方法意識が社会化したことであった。それは、新憲法を基底として教育基本法や児童福祉法等で法的表現を与えられた。子どもを主体として見る児童観から、「児童文化」に子ども自身の創造・制作を含める考えが一般化した。3.戦後における「児童憲章」の制定は画期的なことであったが、児童観や児童文化概念の変革はその後の国民的実践に委ねられたものと解すべきであった。新旧の児童観・児童文化概念の相克をよ具体的に示したのは、「こどもの日」の制定であった。それは厚生省児童局設置(昭和21年3月)に見られる「児童保護」の系譜と「こどもの人格」の社会的認知の折衷であった。「こどもの日」制定を主導した国会の衆参両院文化委員会にける「国民の祝日に関する法律」審議に反映された。4.本研究では、戦前・戦中と戦後の児童文化関係雑誌5種(『少国民文化』『新児童文化』、同復刊版、『児童文化』『児童』)を用いた。
著者
渡部 宗助
出版者
国立教育研究所
雑誌
基盤研究(C)
巻号頁・発行日
1996

1.「二重学年制とは」、一年進級制を前提にして同一学年に学年始期を二つ設けるもので、「雁行級」とも称されて、日本では1909年(明治42)から一部の府県、小学校で実施された。ドイツから採り入れたと思われるこの制度は、4月から8月の間に生まれた満6歳の学齢児童を9月に入学させることで、その分早く卒業させると言う経済的効果を狙ったものであった。2.他方で、満6歳学齢自動の入学時における、いわゆる「早生まれ」児童の心身発達格差に伴う負担の軽減も期待された。学校現場では就学率の上昇に伴う、学級編成の方法もテーマになっていた。この時期は、義務修学4年制から6年制への移行期であり、多くの市町村では校舎・教室不足と教員不足の対策に追われており、それに拍車をかけるようなこの政策は、歓迎されなかった。3.「二重学年制」は、小学校では1941年(昭和16)の国民学校期まで存続し、中学校ではその後も法的には実施可能の状態にあったが、実施は皆無であった。それより以前中等レベルの学校でこれを実施したのは、初等・中等一貫校(11年制)の女子学習院(宮内省所管)であった。その間全国で最高時でも16校程度であったが、大正期に児童の「個性尊重」理念からこれを導入したのが富山県富山市であり、私立成城小学校であり、女子学習院であった。4.以上の点からみれば、この「二重学年制」導入の政策は失敗であった。しかし、「画一的」と言われる日本の学校制度に風穴をあけたものとしては、意義があったと言えるであろう。