著者
村田 臣徳 片岡 正教 安田 孝志 島 雅人 上田 絵美 片岡 愛美 赤井 友美 奥田 邦晴
出版者
公益社団法人 日本理学療法士協会
雑誌
理学療法学Supplement
巻号頁・発行日
vol.2010, pp.BdPF2021, 2011

【目的】<BR> 脳性麻痺サッカー(以下、CPサッカー)は、比較的軽度な脳性麻痺者を対象として誕生したスポーツであり、パラリンピックの正式種目にもなっている。2009年10月から日本脳性麻痺7人制サッカー協会に所属するチームにおいてメディカルサポートとして活動を行なってきた。応急処置やコンディショニングに関わる中で、実際のプレー場面での身体の使い方や技術に関しても障害の影響があり、理学療法士として関わる必要性を感じた。本研究の目的は、CPサッカー選手の身体面の特徴とプレーの特徴との関係を選手ごとに考察するとともに、障害像や身体特性を理解する理学療法士がCPサッカー選手の技術力向上に関わる意義を明らかにすることである。<BR>【方法】<BR> CPサッカーチームの一員として、月1~2回の練習参加と地域大会や全日本選手権大会などの試合に帯同して、現段階で行われている練習メニューやウォーミングアップ、クーリングダウンの方法やそれらの内容について調査した。また各々の選手の試合時のプレーと身体面の特性との関係についてチームの代表者や選手個人と意見交換を行なった。選手のプレー上の特徴については試合を撮影したビデオを見ながらキックやドリブル動作を分析、評価した。身体面の特徴は脳性麻痺のタイプ分類や筋緊張、可動域検査で評価し、プレー上の自覚的な問題点の聞き取りも行なった。対象選手はチーム所属の8名でありCP-ISRAのクラス分けによる「両下肢に麻痺があるが走行可能」なC5選手2名(混合型と痙直型)、「四肢に不随的な動きがあるが走行可能」なC6選手2名(アテトーゼと混合型)、「走行可能な片麻痺」であるC7選手2名(左麻痺と右麻痺)、「極めて軽度な麻痺」であるC8選手2名(後天性左麻痺と後天性混合型)である。<BR>【説明と同意】<BR> 本調査内容の研究目的による使用は対象チーム代表者の承認と、選手本人や家族の同意を得た。<BR>【結果】<BR> 練習や試合前後のウォーミングアップ、クーリングダウンでは、障害のタイプやクラスが異なる選手がメンバー全員で同じメニューを行なっていた。また試合でのキックにおいて、C5、C6選手ではパスの成功は少なく、キック動作時の軸足の踏み込みは弱く体幹も前傾位で浮いた弾道のボールを蹴ることは困難であった。C7、C8選手は非麻痺側でのキックでは弾道の調整は可能であり飛距離も長い。しかし、麻痺側でのキックはなかった。ドリブルについて、C5選手ではボールを蹴って走ってしまうことで体から離れてしまう傾向があった。アテトーゼタイプのC6選手は体幹前傾位での直線的な速いドリブルが特徴的であるが、方向変換が困難なだけでなく常にトップスピードになり緩急の変化が非常に困難であった。片麻痺選手のドリブルは非麻痺側でのボールタッチで非麻痺側方向へ進むことが多く、麻痺側へ進むときはスピードを上げにくい特徴があった。試合を通してアテトーゼタイプの選手は終盤での体力消耗があり、ペース調整が困難であった。片麻痺選手は麻痺側の支持力低下から運動量が低下していた。<BR>【考察】<BR> CPサッカー選手の障害のタイプやクラスは多岐に渡っており、障害のタイプに合わせた下肢のストレッチや、リラクゼーションを含んだウォーミングアップ、クーリングダウン等のコンディショニングが必要である。また、試合でのキック、ドリブルの必要性や特徴は各タイプ、クラスにより異なる。障害によりキック動作は軸足の不安定さや体幹コントロール不良による姿勢安定の困難さがあり、ドリブル動作では姿勢を安定させにくいことや重心のスムーズな移動が困難であると考えられる。障害の特性を知る理学療法士の介入で軸足の安定性向上や体幹のバランス能力向上によりプレー技術の向上が図れると考えられる。また速度調整の困難さやドリブル方向などの身体特性からくる個々のプレー特徴を理解できることで、ドリブルを行なうゾーンや場面の指導、体の向きや最初の進行方向のアドバイスを行いプレーの幅が広げられると考えられる。今回は、実際のプレー場面での視覚的調査、考察であるため、今後は三次元解析などを用いたキック動作やドリブル動作の姿勢や重心位置など各タイプの選手による詳細な特徴の分析や、介入し経時的変化を追う必要があると考える。<BR>【理学療法学研究としての意義】<BR> 走行可能な脳性麻痺者のスポーツへの介入や技術面に関する研究はまだまだ少ない状況である。理学療法研究として今後、職域の拡大も含め障がい者スポーツにおける技術面に関しての介入の可能性を唱える意義のある内容と考える。