著者
牧 幸輝
雑誌
オイコノミカ (ISSN:03891364)
巻号頁・発行日
vol.48, no.1, pp.27-45, 2011-09-30

本稿は,「中京デトロイト化計画」として知られる戦前名古屋の自動車開発について,その経緯と内容,挫折した背景,関係各社の経営環境などを詳細に検討し,その全体像を明らかにした上で,同計画を1930年代の軍需工業化の流れの中に位置付けようとするものである.1930 年代には多くの企業が自動車事業への進出を企てた.ところが,国内で自動車工業を確立するために必要な技術,資本は十分でなく,米国型の大量生産システムをそのまま採用することは望めなかったため,車種の選択や製造方式についての考え方も様々であった.日本車輌製造,大隈鉄工所,岡本自転車自動車が主導した乗用車のアツタ号は,分担作業による国産化を目指した.一方,豊田式織機によるバスのキソコーチ号は,下請企業を活用しながら,機関部品は外国製を用いる国際的部品綜合ノ方式を採用したのだった.しかし結局,アツタ号もキソコーチ号も,本格的な生産に移行出来ないまま製造中止となった.名古屋財界を糾合した大資本による中京自動車工業設立計画も,関係会社間の調整がまとまらず頓挫した.自動車工業は,次第に国策工業の色合いを強め,最終的には,政府・軍部の要求を満たして,自動車製造事業法の許可を受けた会社のみが事実上,事業の継続を可能としたのであった.但し,中京デトロイト化計画に関わった企業は,自動車事業に失敗したことで,その後業績を低下させたわけではなかった.これらの企業は,工作機械や鉄道車輌,繊維機械,自転車といった分野では国内有数のメーカーであり,それ故に軍需生産の重要な担い手となったのだった.自動車事業を断念したというよりも,むしろ軍需を中心とした急速な重化学工業化の中で業容を拡大していったことが肝要であった.名古屋の機械工業発展を目指した中京デトロイト化計画は,軍需工業という形によって実現することになったのである.
著者
牧 幸輝
出版者
Business History Society of Japan
雑誌
経営史学 (ISSN:03869113)
巻号頁・発行日
vol.46, no.2, pp.2_49-2_73, 2011 (Released:2014-09-10)

This article aims to explore the business vision of Risaburo Toyoda and examine his management of Toyoda Gyoudan [Toyota Industrial Group(TIG)] with emphasis on his entrepreneurial network. Although, Kiichiro Toyoda is well known as the “founder” of Toyota Motor Corporation, in fact, he was not in a position to make final decisions. His brother-in-law, Risaburo, was the president of Toyota Motor Corporation as well as the CEO of TIG. Therefore, the study of TIG including Toyota Motor Corporation must devote special attention to Risaburo. Nevertheless, he has not been judged rightly, and has often been regarded as a hindrance to Toyota's rise in the automobile business. This article aims to reexamine his positive role and the organizational structure of TIG, regarded as a “local Zaibatsu”.One of the most important facets of Risaburo was why he decided to enter the automobile industry. This article shows that in the 1930s, he had predicted the rise of Japan's heavy industry and the decline of its textile industry, and he managed to convert TIG's basic business from textiles to heavy industries.It is well known that Zaibatsu and Emerging Corporate groups were disorganized during the wartime economy due to diversification of affiliated companies. On the other hand, TIG, which was a late-comer in the corporate group, was still primarily controlled by the Toyoda family. A lack of external capital needed to enter the automobile business along with wartime corporate controls had threatened its management structure, but Risaburo secured cooperative stakeholders and reorganized TIG, making Toyota Kinyu [Toyota Finance Company] a holding company. Consequently, TIG kept the family-controlled management structure. In this process, Risaburo made the most of his entrepreneurial network and exercised leadership as the CEO.
著者
牧 幸輝
雑誌
オイコノミカ (ISSN:03891364)
巻号頁・発行日
vol.48, no.1, pp.27-45, 2011-09-30 (Released:2014-07-25)

本稿は,「中京デトロイト化計画」として知られる戦前名古屋の自動車開発について,その経緯と内容,挫折した背景,関係各社の経営環境などを詳細に検討し,その全体像を明らかにした上で,同計画を1930年代の軍需工業化の流れの中に位置付けようとするものである.1930 年代には多くの企業が自動車事業への進出を企てた.ところが,国内で自動車工業を確立するために必要な技術,資本は十分でなく,米国型の大量生産システムをそのまま採用することは望めなかったため,車種の選択や製造方式についての考え方も様々であった.日本車輌製造,大隈鉄工所,岡本自転車自動車が主導した乗用車のアツタ号は,分担作業による国産化を目指した.一方,豊田式織機によるバスのキソコーチ号は,下請企業を活用しながら,機関部品は外国製を用いる国際的部品綜合ノ方式を採用したのだった.しかし結局,アツタ号もキソコーチ号も,本格的な生産に移行出来ないまま製造中止となった.名古屋財界を糾合した大資本による中京自動車工業設立計画も,関係会社間の調整がまとまらず頓挫した.自動車工業は,次第に国策工業の色合いを強め,最終的には,政府・軍部の要求を満たして,自動車製造事業法の許可を受けた会社のみが事実上,事業の継続を可能としたのであった.但し,中京デトロイト化計画に関わった企業は,自動車事業に失敗したことで,その後業績を低下させたわけではなかった.これらの企業は,工作機械や鉄道車輌,繊維機械,自転車といった分野では国内有数のメーカーであり,それ故に軍需生産の重要な担い手となったのだった.自動車事業を断念したというよりも,むしろ軍需を中心とした急速な重化学工業化の中で業容を拡大していったことが肝要であった.名古屋の機械工業発展を目指した中京デトロイト化計画は,軍需工業という形によって実現することになったのである.