著者
田中 智志
出版者
教育思想史学会
雑誌
近代教育フォーラム (ISSN:09196560)
巻号頁・発行日
vol.11, pp.13-25, 2002-12-04 (Released:2017-08-10)

他者は、同化されたり馴致されることによって消えていくものではない。他者は、たとえば、近代教育のような現実の言語ゲームが構築するヘゲモニーを撃つ批判的な拠点である。このような他者の存在を承認し、他者の存在を教育することは、いかにして可能だろうか。第一に、他者への教育は、他者の了解不可能性を了解するという態度を要請するだろう。他者を了解することは、他者を承認することではなく物に還元することだからである。第二に、他者への教育は、近代教育の正当性を脱構築する知を要請するだろう。近代教育の正当性は、存在神学という、他者否定の思考にあるからである。近代教育の脱構築は、「進歩」「発達」「文明化」という上昇指向を相対化し、偶有的・刹那的な共在を語らなければならない。偶有的・刹那的な共在を語る存在論は、存在神学を喪った時代を生きる子どものニヒリズムを否定的なものから肯定的なものに反転させる契機となるだろう。つまり、偶有的・刹那的な共在を語る存在論は、生の悲劇性=喜劇性を感受するきっかけを子どもに与えるだろう。
著者
田中 智志
出版者
教育哲学会
雑誌
教育哲学研究 (ISSN:03873153)
巻号頁・発行日
vol.1991, no.63, pp.94-106, 1991-05-10 (Released:2010-01-22)
参考文献数
30

The purpose of this paper is to give an at least somewhat satisfactory answer to the question why Counts linked indoctrination with democracy. In order to understand the relation of these two concepts, I interpret it not from the premises of Marxism-Leninism but, in accordance with the two following moments, from his theory of social reconstruction. One moment if the historical relativism implied in the historical concurrence theory of his friend Villard; the second is the moral 'faith' which is consonant with 'American culture', or 'American civilization conform to Villard's conceptions.As a result, the following conclusions are drawn : 1) Counts' democracy is neither a form of a narrow political system nor a doctrine for constructing a closed world. Basically, it implies moral faith concomitant to social relations in a typically American agricultural society. 2) This democracy is neither something which the child can weigh and choose nor a substantialized value nor something which can be taught as a political doctrine; it is essentially the outcome of a subconscious compulsory act (coercion) of the American= democratic social order. 3) However, at a time when the democratic social system and the faith embodying American culture are blocked, the school must increasingly strengthen the compulsory action (i.e. indoctrination) in order to save democracy. 4) Finally, Villard's historical relativism was chosen by the sociologist Counts as his own standpoint (normative proposition) and serves as a politico-philosophical enhancement of his theoretical moment; including some degree of conjecture, I may say his American 'faith' as such becomes the existential moment so to speak for overcoming a crisis.
著者
田中 智志
出版者
教育思想史学会
雑誌
近代教育フォーラム (ISSN:09196560)
巻号頁・発行日
vol.13, pp.39-48, 2004-09-18 (Released:2017-08-10)

弘田は、近代教育学がいだいてきたカント像を構成するいわば言説装置を論じている。それは「超越論的なものと経験的なもの」とのせめぎあいである。この言説装置によって喚起されるものが近代教育学に見られる「人間的なもの」への渇望である。彼は私たちの教育学研究がこの言説装置の「外」に出られないという。彼のカント論はフーコーのカント論を彼なりに読みかえたうえで構成されているが、彼のフーコー論はフーコーが拒絶したカントの人間学をフーコーの晩期思想と見なすとともに、フーコーが肯定したカントの<アクチュアリテからの批判>をフーコーの思想から消している。人間学こそフーコーの敵であり、アクチュアリテこそすべての言説装置の「外」を開く起点である。批判的で闘争的なフーコーを批判的で非闘争的なカントのなかに回収してはならない。
著者
田中 智志
出版者
駒澤大学
雑誌
駒澤大學文學部研究紀要 (ISSN:04523636)
巻号頁・発行日
vol.54, pp.A1-A28, 1996-03

一九世紀前期のニューイングランドに、多くの、愛による教育を論じる書物が登場した。愛による教育は、自己統治する<人間>を形成する方法である。自己統治する人間は、自己が超越的な内在性に準拠するという、自己準拠の形式をもつ身体である。愛による教育は、おもに中産階級の<家庭>をつうじて流布していったが、この家庭も、自己準拠の形式をもつ制度である。また、公教育は、第二の家庭として、父の補として、治療する博愛として構想されたものである。人間も家庭も公教育も、モダンな言説戦略に条件づけられ、この戦略は、機能連関という社会構造によって条件づけられている。愛、したがって愛による教育は、こうしたモダンな身体・制度、言説戦略、社会構造とともに可能になるものである。
著者
田中 智志
出版者
駒澤大学
雑誌
駒澤大學文學部研究紀要 (ISSN:04523636)
巻号頁・発行日
vol.53, pp.A19-A48, 1995-03

モダニティを問うために必要な視界は、ノミナリスティックな視界である。この視界をよくあらわしているものは、フーコーの批判的存在論である。かれの批判的存在論は、主体批判として構想されたものであり、主体を歴史的な自己関係形式の一つとして捉える理論である。批判的存在論は、諸力の関係と権力の装置とのダイナミズムを前提にし、権力の装置として言説・テクノロジー・身体形式を想定している。また批判的存在論は、諸力の関係/権力の装置のダイナミズムを明らかにすることによって、力=ピュシスを誘発しようとする。主体身体は、この力=ピュシスから離床し、このピュシスを隠してしまう。主体そのものが権力の装置だからである。よって批判的存在論は、啓蒙の原理にしたがう社会改革を志向するのではなく、啓蒙の態度にしたがう社会変容を志向する。このことから当面帰結することは、モダンな営みである主体形成=教育を国家権力として批判することでもなければ、人間賛歌として宣揚することでもなく、それを諸力の関係を権力に変換する装置として理解し、そこに力=ピュシス誘発の逃走線=闘争線を引くことである。