著者
町田 尚久
出版者
公益社団法人 東京地学協会
雑誌
地学雑誌 (ISSN:0022135X)
巻号頁・発行日
vol.123, no.3, pp.363-377, 2014-06-25 (Released:2014-07-03)
参考文献数
31
被引用文献数
1

To clarify the cause of heavy rains and weather related to a famous disaster that occurred in 1742, the weather sequence and its spatial distribution were investigated on the basis of local historical documents obtained from various areas of central Japan. As a result, the eastward movement of a typhoon was reconstructed in the sea off the south coast of central Japan. It was accompanied by an inflow of moist air around the eastern fringe of the typhoon, which brought about a rain zone extending from Kinki to Kanto from 27th Jul. to 1st Aug., according to the lunar calendar used at that time. The typhoon abruptly turned north when it reached southern Kanto and proceeded north across Honshu. It was accompanied by heavy rains and strong winds on 1st and 2nd Aug., which were recorded in central and western Kanto and areas further north. The abrupt change of direction seems to have been caused by a strong anticyclone that is thought to have extended to the east coast of Kanto. Although this situation around an anticyclone occurs frequently in late Summer, not enough evidence has been obtained yet on the situation at that time. The heavy rains and induced landslides caused floods particularly in the Ara, Tone, and Chikuma river basins. This is a matter of concern from the viewpoint of a fluvial geomorphic system analysis.
著者
町田 尚久
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2015, 2015

<b>1.はじめに</b><br>関東甲信地方では,寛保2年(1742年)7月27,28,29日,8月1,2日(旧暦)に台風の通過に伴う大洪水が発生した。この災害については,丸山(1990)などが被害の状況を千曲川流域でまとめ,町田(2014)が台風の進路を復元した。町田(2013)は,寛保2年洪水時に荒川上流域の斜面で大量の土砂移動が発生したことを指摘し,これ以降,荒川扇状地で河床変動が生じたことを報告した。しかしながら,寛保2年洪水時の土砂移動の状況については明らかにされてこなかった。本発表では土砂移動の発生の可能性を明らかにすることを試みた。<br><br><b>2.対象地域・対象資料</b><br>対象地域は,土砂移動が発生した荒川流域,利根川流域,千曲川流域とする。資料は,古文書などの一次資料を基にまとめられている県史,市町村誌,郷土史,先行研究等とした(横瀬町,1989;青木,2013;丸山,1990;河田,1977など)。文献には現象,災害記録,景観の変化などの記載があり,当時の土砂移動の有無を知ることができる。<br><br><b>3.土砂移動発生の記録</b><br>千曲川流域の長野県北佐久郡や南佐久郡,松代周辺では山崩れなど,利根川流域の群馬県嬬恋村,赤城山北部,上武山地および荒川流域の埼玉県長瀞町や横瀬町では斜面崩壊などの記載がある(青木,2013;丸山,1990;河田,1977など)。また,多摩川流域の東京都青梅市では家屋が埋まった記録がある。以上のことから町田(2013)が経路を復元した台風による土砂移動は,浅間山周辺から丹沢山地までと,赤城山の一部で発生したことが認められる。資料の多い千曲川流域では数多くの崩壊や地すべりが発生したことから,資料の少ない荒川流域と利根川流域でも,同様の状況にあったと考えられる。<br><br><b>4.寛保2年頃の山林状況</b><br>江戸時代の山林については,青木(2013)は山林の状況と当時の御触に基づいて千曲川流域の状況を示し,開発の影響によるものと推定している。秩父山地では17世紀中期以降,現在の秩父市大滝では伐採がすすみ,幕府が集落から離れた地域で樹木の伐採を制限し,さらに秩父市大滝や上州山地南側にある上野国山中領(現 上野村周辺)の一部でも伐採の制限がかかった(三木,1996)。これは樹木の伐採が進み,木材の確保が難しくなることを懸念した江戸幕府が伐採地域を制限したと推定することができる。一方,伐採制限のかかっていない地域や伐採の制限が弱い地域については伐採が行われていたと解釈することができる。このことから伐採が利根川流域でも進み,荒川上流域や利根川流域の一部では山林が荒廃していた可能性がある。さらに新編武蔵国風土記稿(秩父郡)の挿絵(蘆田,1933)から寛保2年の約90年後の植生や土地利用を推定でき,当時の植生は,現在のように高木が主体ではなかったことが読みとれる。<br><br><b>5.土砂移動が人為的影響により引き起こされた可能性</b><br>千曲川流域では人為介入の影響を受けた土砂移動の発生が指摘され(青木,2013),群馬県上野村周辺では正徳3年(1713年)に一部で伐採の制限をかけたが,寛保2年洪水時には幕府の伐採制限がかかっていた流域と隣接する南牧川では数多くの土砂移動が発生した。荒川流域,利根川流域の一部では,木材自給の増大した1700年代と寛保2年(1742年)洪水時の大雨が一致することから,木材の伐採が進み荒廃した斜面で崩壊や地すべりなどの土砂移動が発生しやすい状況にあったと推定できる。さらに蘆田(1933)の挿絵から秩父山地で高木が少ない環境があったと推定でき,降雨量によっては土砂移動を誘発する可能性は高い。さらに町田(2013)が示した寛保2年から安政6年までの荒川扇状地での河床上昇は,17世紀後半から伐採が増加する時期と一致することから山林の荒廃が示唆される。このことは当時,土砂移動が頻発したことを強く支持するものと考えられる。<br><br><b>6.おわりに</b><br>過去の地すべり,崩壊および土石流といったマスムーブメントの発生には,自然環境だけではなく,発生当時の社会状況,生活状況,産業(林業),御触(法令)などが強く結びついている可能性がある。このことから土砂移動は自然環境を背景として,さらに人為的影響を受けて発生することがあることが示された。歴史災害についても自然の影響と人為の影響を確認する必要がある。一方,植生分布,土砂生産など自然環境で結びつく現象については,流域単位で自然環境の変化とその動態を明らかにする必要がある。<br><br>
著者
町田 尚久
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2013, 2013

<B>1.はじめに</B><BR> 寛保2年の洪水は,埼玉県長瀞町の寛保洪水位磨崖標などに代表されるように,関東地方では荒川流域や利根川流域,千曲川流域を中心に大きな被害をもたらした.特に千曲川流域の浅間山周辺では大きな土砂災害や洪水災害がもたらされた(丸山1990など).この洪水にかかわる古文書は,近畿地方から関東地方にかけてあり,近畿地方では鴨川や近江の災害がみられるものの詳細な記録は数少ない.また,関東甲信越地方では,多数の古文書やそれにかかわる文献がある.この洪水の原因に関しては,国土交通省北陸地方整備局(2002)によって複数の台風の進路が提示されているが,諸説あるため,実態に則して気象現象を明らかにする必要がある.そこで本研究では,埼玉県内の寛保2年災害にかかわる複数の資料に記載されている気象実態から,災害の実態との関係を考察する.なお,本研究では日付を旧暦にて表記する.<BR><B>2.寛保洪水にかかわる資料と気象実態</B><BR> 寛保2年の気象の記録は,現在の埼玉県越谷市(越谷市史),深谷市(武州榛沢郡中瀬村史料),加須市(加須市史),羽生市(羽生市史),県外では長野県松本市(松本市史上巻)がある.たとえば,越谷市史の西方村旧記の弐(越谷市役所市史編纂室1981)には次のような天気の変化が記録されている.<BR><BR> 越谷市史(西方村旧記 弐)<BR> <I>寛保ニ戌年七月廿七日より八月二日迄雨ふり続き申候、<BR> 尤朔日之朝より大雨降リ八ツ過より丑寅風にて、雨の降<BR> る事矢之ごとく、同晩四ツ時より辰巳風に成大風にて大<BR> 木もたおれ、雨は桶よりまけることくして,二日之朝七<BR> ツ時より雨風しづかに成、五ツ時より天気能三日之昼九<BR> ツ迄川通リ水少に(略)</I><BR><BR> 気象の実態を解釈し抜粋すると,越谷市では,8月1日の八ツ過(14時過ぎ)より「丑寅風」(北東),同じ晩の四ツ時(20時)より「辰巳風」(南東)となる.2日の朝七ツ時(4時)には,「雨風しづか」となり,降雨をもたらした気象現象がほぼおさまったと考えられる.<BR><B>3.資料からみた埼玉周辺の気象の実態</B><BR> 埼玉県内の越谷,加須,羽生,深谷の各地点では,降雨が27日から認められる.28~29日には,降雨がある場所ない場所に分かれるため,不安定な天候であったこと推察され,29日に限っては小康状態となっていた可能性が極めて高い.一方で29日の夜には,深谷で北東風(艮風)と大雨,長野県松本で大雨との記載があるが,その他で明確な表記が少なく不安定な天候が8月1日の午前中まで続いていたと解釈できる.<BR> 8月1日になると埼玉県内の各地点と長野県松本のすべてで,大雨となり風もあった.特に越谷では14~16時に東北風(丑寅風)が,長野県松本市では16~18時に北風が吹く.そして22~24時には越谷で南東風(辰巳風)となり,風向きの変化がみられることから,台風と考えられる.そして越谷では台風の北から東側にあたる位置であったと解釈される.松本は,山間地域の北風であることを考慮すると,少なくとも台風の西側の位置にあたる.このことから台風の中心は,埼玉県越谷と長野県松本の間を通過したと考えられ,関東・東海から北上し,日本海方面へ向けて通過したと判断される.<BR><B>4.台風の検証と異常気象との関係</B><BR> 越谷で大風の影響が14時~翌4時で最大14時間である.この記録を基に一般的な台風(直径400㎞)を想定すると,平均移動速度が約29㎞/hとなることから比較的速い速度で通過したことになる.寛保2年の全国的な天候を長崎県諫早や青森県弘前などの古文書を参考に解釈すると,比較的天候に恵まれており冷夏や異常気象の記載がみられない.一方で台風の直径が400km以上になると,近畿地方から関東地方にかけてが,台風の影響範囲と一致するので,寛保2年の災害は台風によるものと判断できる.しかし近畿地方の資料には,時間の記録がある資料を得られていないことから,さらに精査する必要がある.<BR><B>5.台風によってもたらされた崩壊とその後の影響</B><BR> 丸山(1990など)は,千曲川流域の災害の実態を古文書などから復元し,町田(2011)は寛保洪水位磨崖標の高水位の原因をマスムーブメントと指摘した.この実態に沿うように,武州榛沢郡中瀬村史料(河田1971)には,西上州の山々の崩壊が記されている.このことから利根川流域の西側では数多くの崩壊をもたらしたと推察できる.一方で秩父では崩壊の記録は少ないため,そこから浅間方面に向けて崩壊地が増加していたと考えられる.従来の歴史水害の研究は,水害の要因を降雨の増加にともなった流量の増大として考えることが多いが,崩壊が河川への供給源となって土砂を下流側へ供給することで,水害が発生することも考慮する必要がある.今後,氾濫の実態から河床変動との関連性を明らかにする.