- 著者
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白倉 一由
- 出版者
- 山梨英和大学
- 雑誌
- 山梨英和短期大学紀要 (ISSN:02862360)
- 巻号頁・発行日
- vol.33, pp.1-14, 1999-12-10
小尾守彦の人格と彼の俳語の世界の究明である。八ヶ岳南麓は江戸時代後期農民の間に教育と俳語が盛んに行われたが、その功績は小尾守彦に負うところが大きい。当時里正であった小尾守彦は行政の責任者であったが、蕉庵の三世宗匠でもあり、彼の人格とあいまって、多くの人達が彼の下に集まった。五町田村は八ヶ岳南麓の文化の中心であった。小尾守彦は蕪庵の三世宗匠になったが、この宗匠委譲に大きな力になったのが、馬城ではなかったかと思われる。馬城は『一茶全集第七巻』には大阪の人とあるが、蕪庵の馬城は五町田村の馬城であり、馬城は当時二人居たのである。『一茶全集第七巻』の馬城の注は誤りである。小尾守彦の人格と出自は現山梨県北巨摩郡高根町五町田七八一番地に建立されている漢文五百字の石碑に記されている。彼は人格者であり、教育者であり、行政の指導者であり、俳人であった。天保五年『土鳩集』を刊行する。県内のみならず江戸・信州その他全国から合計二九四人の句が掲載されている。守彦の没後、万延二年慈明忌に、四世宗匠彦貢が追善俳譜集『旭露集』を刊行する。この二句集によって、守彦と蕪庵の俳譜活動の全貌が究明される。蕪庵は蕉風俳語であり、彼の俳静は自然美の詳細な感受性、日常生活の断片的印象、人生の意義、人の生の理想を表現している。「蕪庵とその周辺の俳譜 一」は「日本文芸論集」第二二号に、「蕪庵とその周辺の俳語 二」は「日本文芸論集」第三一号に発表したが、今回の「蕪庵とその周辺の俳譜 三」は山梨英和短大紀要に発表することにした。