著者
立川 明
出版者
国際基督教大学
雑誌
国際基督教大学学報. I-A, 教育研究 (ISSN:04523318)
巻号頁・発行日
vol.48, pp.1-26, 2006-03

定説では,19世紀の半ば以降に登場するランド・グラント・カレジは,1828年のイエィル・レポートが定式化した古典的カレジにとって替ったといわれる.本論では,こうした定説に疑義を差し挟み,定説とは反対にランド・グラント・カレジの構想はイエィル・レポートの主張の延長線上にあり,後者の提案の具体化でさえある,と主張する.イエィル卒のジョナサン・ボールドウィン・ターナーは1851年,科学と文芸の諸原理こそ優れた教育の基礎であるとの原則を応用して「産業大学論」を公表した.産業大学を中心として,ワシントンの中央研究所と産業諸階級とを結ぶ教育体系を提唱したターナーは,宗教に基づくかつての「公共性」に替えて,知の共和国に基づく新しい「公共性」を高等教育に打ち立てたのである.
著者
立川 明 タチカワ アキラ Akira TACHIKAWA
雑誌
国際基督教大学学報. I-A, 教育研究 = Educational Studies
巻号頁・発行日
no.48, pp.1-26, 2006-03-31

定説では,19世紀の半ば以降に登場するランド・グラント・カレジは,1828年のイエィル・レポートが定式化した古典的カレジにとって替ったといわれる.本論では,こうした定説に疑義を差し挟み,定説とは反対にランド・グラント・カレジの構想はイエィル・レポートの主張の延長線上にあり,後者の提案の具体化でさえある,と主張する.イエィル卒のジョナサン・ボールドウィン・ターナーは1851年,科学と文芸の諸原理こそ優れた教育の基礎であるとの原則を応用して「産業大学論」を公表した.産業大学を中心として,ワシントンの中央研究所と産業諸階級とを結ぶ教育体系を提唱したターナーは,宗教に基づくかつての「公共性」に替えて,知の共和国に基づく新しい「公共性」を高等教育に打ち立てたのである.According to the standardized interpretation of the history of American higher education in the nineteenth century, the Land-Grant Colleges displaced the position of the Yale Report of 1828. The present author would contend that, on the contrary, the former have in fact fulfilled the programs which the Yale Report had advocated, especially in its first part. Jonathan Baldwin Turner, an Illinois college teacher and farmer, a one-time protegee of Jeremiah Day at Yale, promoted the admissions of industrial classes to college education on the basis of the Yale Report idea. That idea referred to the justification of the basic principles of science and literature as the foundation of a superior education. By envisaging an industrial education as dynamic interactions of all practical workers and the Smithsonian Institution as the academic center, via mediating industrial universities, Turner effected a shift of the ground for public higher education from the traditional religious solidarity to the future- oriented republic of knowledge.
著者
立川 明
出版者
国際基督教大学
雑誌
国際基督教大学学報. I-A, 教育研究 (ISSN:04523318)
巻号頁・発行日
vol.44, pp.1-15, 2002-03

本論ではまず戦後の日本での高等教育改革の一つの前提となる,当時のアメリカ合衆国での教養教育の特色の一端を論じたい.その要点は,20世紀前半のアメリカの教養教育は,主として人文学の立場から構成されていた,という点である.この論点を,できるだけ戦後の教育改革に実際に携った人物の意見を中心として,再構成してみたい.その上で,教養教育についてのアメリカ側からの提起を,日本側がどう受け止めたのかについて,多少とも触れたい.最後に,戦後教育改革において,ウォールター・イールズの果たし(得)た役割について,ジュニア・カレジと教養教育との関係に焦点をあて,論じたいと考える.
著者
立川 明
出版者
国際基督教大学
雑誌
国際基督教大学学報. I-A, 教育研究 (ISSN:04523318)
巻号頁・発行日
vol.47, pp.11-22, 2005-03

戦後日本の自殺率は,1958年前後および2000年前後と,2度にわたるピークを画している.前者の主因は当時15歳から24歳であぅた若者の自殺の激増に求められ,最近のピークは55歳から64歳までの中・高年齢層の自殺め増加により説明できる.2つのピークは共に,1936年から1945年の間に生まれた同じ世代の自殺から生じている.それぞれ彼らの社会への参入時と,社会からの引退時に対応している.本論では,2つのピークに共通する原因として,戦後教育改革期(1945-1955)における民主的な教育内容と,保守的な日本社会との対立に注目する.教え子を再び戦場に送らないとの決意のもと,改革期の教師の多くは「個人の尊厳」を強調する民主教育を展開した.しかし彼らの意図とは裏腹に,そうした教育は今度は教え子を,大量にしかも生涯にわたって,アノミックな自殺へと追いやる結果となったと推論されるのである.