著者
藤岡 正春
出版者
島根大学
雑誌
島根大学教育学部紀要. 教育科学 (ISSN:0287251X)
巻号頁・発行日
vol.32, pp.29-38, 1998-12-01

柔道の創始にあたって嘉納は「唯々幾分かの改良を加えさえすれば,柔術は体育智育徳育を同時に為すことの出来る一種の便法と成ることが出来ると申せようと存じます。それで私は数年間工夫を凝らし遂に一種の講道館柔道と云ふものを拵えるた」と言い,柔術を母体にして柔道が集大成された。この柔術について「柔術には流派が幾個も有りまして,均しく柔術と云ふ名称で同じ様なことを致します(中略)又體術,和,柔道,小具足,捕手,拳法,白打,手持など,種々の名称が御座いますが,皆一種の柔術です」と言い,総括すると「無手或は短き武器を持って居る敵を攻撃し又は防御するの術」と言っている。この柔術の技術内容を見ると,堤宝山流では「刀槍・鎧組(鎧を着用して組打ちする柔術)の他に太刀・柔・小具足・鎖鎌・棒・薙刀・弓・馬・振杖」,また竹内流では「柔,捕手,小具足,拳,棒,仗,居合,薙刀,縄,短剣,浮沓」などである。その他「長巻,手裏剣,乳切木,鎖鎌,軍法,鉄扇,十手,騎射」等にまで及ぷ総合武術であり,戦場に於ける鎧組打ちという実戦の中で培われた武術が集大成されたものである。これらの柔術の中で最古の柔術は,小具足の術を主とするところから堤宝山流(慈恩・14世紀後半)が最も早く成立した流派と言う説もあるが,現存する歴史的資料で確認できる最古の柔術は天文元年(1532年)に創始された竹内流である。13; 気楽流拳法,柔道秘術之伝,捕手柔術の源に「吾朝に柔術といふ事,往古はなかりし也。唯相撲を以て戦場組討の習いとし,是を武芸の一つとせし也」6),また登假集の"古より相撲を以て柔術修行の事"項に「古より武芸の終始組討なる事,雖能知,柔組討といふ名目なく,唯武士の若き者集まり,相撲を以て身をこなし,理気味を去り,躰を和らかになして,一心正しくする事のみ執行せし事なり」7)とあるように,,相撲(武家相撲又は練武相撲)が戦場組打のための基礎となる体力養成の手段として又,実戦での経験や工夫等組討術修練の方法として重要視されていたことが分かる。13; この相撲は奈良・平安時代に行われていた三度節の一つである節会相撲から発展したものである。この節会相撲の最も古い記録は神亀6年(734)7月7日の天覧相撲である。貞観10年(868)に式部省から兵部省へ所管変えになるまで,式典的要素や娯楽的要素が高く練武的要素の低いものであったが,所管変え以降練武的要素が高まると共に式典的要素や娯楽的要素は徐々に稀薄となっていった。13; この節会相撲は,古事記の鹿島神宮の祭人である建御雷神と建御名方神が出雲の国を掛けて争った政治上の戦い(関節技が主)や日本書記の野見宿禰と当麻蹴速の力競で,相手を蹴り殺した徒手による打つ・蹴る・投げる・関節を取る等の方法で行われた古代の格闘技である争力(チカラクラベ)や桷力(スマイ)が発展したものである。13; 相撲は日本人の農耕生活と深い関わりをもつ。即ち,水稲の栽培は勤勉と忍耐・工夫に加え天候の影響を受けるため,時を定め相撲・弓射・踊りなどにより豊作を祈った。これが神事相撲へと発展する。そして食・住の安定に伴う流通経済の発展は,階級の分化とともに貴族社会の成立,同時に神事相撲は節会相撲の形式(三度会=正月の射礼,五月の騎射,七月の相撲)を取り,定例化され,高倉天皇承安4年(1174)平安朝の終りによって記録が絶つまで続いた。13; この様に柔道・柔術・組討(武家相撲・練武相撲)・節会相撲・神事相撲・徒手の格闘技と際限無く遡る。この様な柔術の発展過程に於ける起倒流系柔術の一流派である直信流柔道について,第一報において,起倒流及び直信流柔道の成立や直信(心)流柔術・柔道の名称,技法(変化)等について報告した。13; そこで本研究では,柔術という名称について,十三代師範,松下善之丞の直信流柔道業術寄品巻(柔説・柔演・柔第・警・歌),直信流柔遣業術書(本意・精粗・運轉・移響)にみられる思想について報告する。13;
著者
藤岡 正春
出版者
島根大学教育学部
雑誌
島根大学教育学部紀要(教育科学) (ISSN:0287251X)
巻号頁・発行日
vol.13, pp.81-88, 1979-12-25

柔道の国際化に伴い、日本柔道は重量級のみならず軽量級の力も諸外国と接近し,全階級制覇は至難とされるようになった。第3回世界選手権に続き東京オリンピックにおいてもオランダのへ一シング選手(196㎝,120㎏)に敗れ,寝技の重要性と体力不足が大きく指摘された。以後、世界の柔道はパワーの柔道へ進むとともに,選手の大型化(オランダ・アドラー,218㎝,ソ連・チューリン,210㎝,共に140㎏)と国際審判規定の改正により,更にパワーのあるダイナミックな柔道が要求されるようになった。このような世界の柔道の趨勢の中で日本の柔道界は,体力養成と同時に外国選手向きの技として担ぐ技の修得が叫ばれ,力を入れて来た。13; 東京オリンピック前年(1963年秋)へ一シング選手が2ケ月間の天理大学での練習時に,1無名選手の小内刈に良く転んでいた。又オリンピック後の尼崎国際大会決勝戦で日本の加藤選手に同じく小内刈で技有を取られるのを見て以来,大型選手に対して最も有効な技は小内刈等の足技という確信を持つようになった。13; 嘉納杯は,東京オリンピック以来日本で初めての大きな国際大会てあり,この大会を分析することにより,今後の日本の柔道選手は,どのような技を修得しなければならないか,その手掛りを見付けだしたい。