著者
前田 しほ
出版者
島根大学
雑誌
基盤研究(C)
巻号頁・発行日
2015-07-10

旧ソ連の独ソ戦の記念碑を中心に戦争記憶を調査し、文化史的視座から旧ソ連諸国の愛国主義のメカニズムを分析・考察することを目的とする。敗戦国である日本にとって、戦勝国の戦後イデオロギーは理解しがたい。総力戦の栄光の勝利の記憶は、ナショナル・アイデンティティの基盤である。そして、ソ連の愛国主義プロパガンダの戦略は、後継国家であるロシアをはじめ、中国・北朝鮮・モンゴルなど、北東アジア地域一帯に影響を及ぼしており、ソ連の戦争についての記憶研究を充実させることが肝要だ。このような観点に基づき、旧ソ連全体を調査対象として、今日残っているソ連の戦争記念碑と、ソ連崩壊後に造られた戦争記憶を広く収集した。
著者
小谷 充
出版者
島根大学
雑誌
島根大学教育学部紀要. 教育科学・人文・社会科学・自然科学 (ISSN:18808581)
巻号頁・発行日
vol.46, pp.127-142, 2012-12-25

本研究は、映画を主とした映像表現に展開するタイポグラフィの構造分析を通して、文字の視覚的な意味伝達機能を明らかにすることを目的としている。本稿では、グラフィックデザイナー・�良多平吉(1947-)がタイトルデザインを担当した劇場用アニメーション『銀河鉄道の夜』(1985年、監督・杉井ギサブロー)を対象作品として、組版の再現実験をもとにタイポグラフィの特質とそのコンセプトを考察した。対象作品のタイトルデザインやクレジットに見られる以下の特質、①混植を前提とした和文組版、②複数の欧文書体による画面構成、③精緻で極端な詰め組調整、④従属欧文の排除、⑤拗促音の小字、⑥罫線および記号類の使用などの「視覚表現の文法」は、�良多平吉が装丁を担当したますむら・ひろし(1952-)の原案本においてすでに構築されていたことを明らかにした。さらに、原案本から映画、関連書籍へと拡張する媒体の視覚的同一性を、組版技法によって保持していたと結論づけた。
著者
臼田 春樹 和田 孝一郎 岡本 貴行 田中 徹也 新林 友美
出版者
島根大学
雑誌
若手研究(B)
巻号頁・発行日
2016-04-01

腸粘膜バリアの慢性的な低下(leaky gut syndrome: LGS)は全身疾患の発症に深く関与することが示唆されている。しかし、ヒトに使用可能で適切にLGSを評価する方法は確立していない。本研究では、軽度、中等度、重度のLGSを呈するマウスモデルを確立し、これらを用いてLGSの新規診断指標(試薬K)を確立した。また、非アルコール性脂肪肝炎(NASH)とクローン病を誘発したマウスでは、発症初期の段階でLGSが生じることが試薬Kによって判明した。特にクローン病の小腸ではLGS状態と炎症の両方に関連する内因性因子の発現が増加しており、LGSがクローン病の発症に関与する可能性が示唆された。
著者
松本 舞
出版者
島根大学
雑誌
島根大学教育学部紀要. 教育科学・人文・社会科学・自然科学 (ISSN:18808581)
巻号頁・発行日
vol.48, pp.55-63, 2014-12-25

前編では、まず、初期近代の英国詩人たちの表現を、錬金術の理論と照合させながら確認していった。錬金術によって取り出される第五元素の効果は、1650年代の錬金術復興運動の時期を経て変化していったこと、死からの復活を可能にするものとして錬金術が描かれていることに注目した。13; 本編では、トマス・ロッジの「錬金術の解剖」やエイブラハム・カウリーの「オード」の中で描かれる、錬金術師の表現をみていく。また、ベン・ジョンソンの戯曲『錬金術師』の中の錬金術の実験の行程や、錬金術をとりまく人々の描写を検証する。13; また、後編では、終末思想と錬金術の関係を明らかにしながら、ヘンリー・ヴォーンの詩の中の実践的錬金術の描写を清教徒の「新たなる光」('New Light')の概念に対する批判の視点から考察したいと考えている。
著者
松本 舞
出版者
島根大学
雑誌
島根大学教育学部紀要. 教育科学・人文・社会科学・自然科学 (ISSN:18808581)
巻号頁・発行日
vol.47, pp.81-88, 2013-12-25

本論では、まず、初期近代の英国詩人たちの表現を、錬金術の理論と照合させながら確認していく。錬金術には、卑金属を金に変える、実践的錬金術のほかに、不老不死の薬を得ようとする、精神的錬金術があり、両方の錬金術が文学作品の中で描かれている。錬金術師は一種の詐欺師であると、皮肉を込められて描かれることが多いが、錬金術によって取り出される第五元素の効果は、1650年代の錬金術復興運動の時期を経て、変化していく。さらに本論では、死からの復活を可能にするものとして錬金術が描かれていることに注目する。後編では、終末思想と錬金術の関係を明らかにしながら、ヘンリー・ヴォーンの詩の中の実践的錬金術の描写を清教徒の「新たなる光」('New Light') の概念に対する批判の視点から見ていく。
著者
三保 忠夫
出版者
島根大学
雑誌
基盤研究(C)
巻号頁・発行日
2006

古代の日本律令国家の時代から近世末期(近代の一部)までの文字資料を調査し、日本語の助数詞について検討してきた。7、8世紀の古文書・木簡等を中心とする資料、9〜19世紀の間の古文書類・古記録類・古辞書類等を中心とする資料を調査・研究した結果、ひとくちに「日本語の助数詞」と称されるものは、時代的な経緯により、性格上、「三層」構造となっていることが判明した。その第1は、「奈良時代の助数詞」であり、その第2は、「中古〜中世の助数詞」である。前者は、大陸渡来の文書行政の一環として導入され、「文書語」のひとつとして位置付けられる助数詞の体系である。後者は、それが日本社会に融け込み、日本的変容を遂げながらも、いわば「伝統的助数詞」として安定的な地位を獲得していった体系である。中世後半から近世にかけて、特に書記言語の世界において、その「伝統的助数詞」は、"典拠・故実"を有する「文書の作法・礼法」ともされた。だが、中世後半から近世にかけて、「第3の助数詞」が登場する。これは、禅宗文化や日明交易にともない、明国から(正確には元国から)入ってきた新しい助数詞の体系である。文房四宝の"筆・墨"の数量表現は、旧来の伝統的助数詞では「一管」「一挺」というが、これは「一枝」「一笏」という。江戸時代には、新時代的な言語(明国語)の体系と共に、こうした新しい助数詞が、文人・禅僧を中心とする文化人社会に行われていたのである。この「第3の助数詞」体系につき、従来、言及されることはなかった。この度、初めて明確になった知見であり、重要な研究成果であった。以上のような研究経過にともない、本研究では、個別的、具体的な種々相についての研究も行った。以後は、研究成果を速やかに公表し、各位の批判を得るよう努力する。末尾ながら、日本学術振興会より科学研究費補助金の交付を賜ったことにつき深く感謝申し上げたい。
著者
三原 重行
出版者
島根大学
雑誌
島根大学教育学部紀要. 人文・社会科学 (ISSN:02872501)
巻号頁・発行日
vol.32, pp.55-66, 1998-12-01

「詩人の恋」はシューマンのハイネ歌曲集の中で最も完成度の高い作品であり, 彼の"歌の年"1840年を代表する最高傑作とされる16曲の歌曲集である。13; テキストは現在「歌の本」におさめられている「抒情的間奏曲」からとられた。当時この歌曲集は20曲からなる歌曲集として出版された。1994年10月に録音されたトーマス・ハンプソン(バリトン), ヴォルフガング・サヴァリッシュ(ピアノ)EMI,TOCE-9505 のCDによれば歌の本の抒情挿曲からの20の歌(「詩人の恋」のオリジナル・バージョン)としてきくことができる。すなわち現行版の第4曲と第5曲の間に「おまえの顔はとても可愛くて」作品127の2, 「おまえの頬を寄せよ」作品142の2が現行版の第12曲と第13曲の間に「ぼくの恋は」作品127の3,「ぼくの馬車はゆるやかに」作品142の4曲が挿入されている。現行版の16曲からなる「詩人の恋」の見地からは, もともとハイネの詩の主題は失われた愛の"追憶"なのであって, それにまつわる歓びも悲しみも, いわば過去という単一な時間の中での同時的, 併存的な存在である4曲の削除により, 独自の選択と配列によって時間的, 心理的な秩序を形成し, それぞれの歌にドラマ的な佳格を与えたのである。13; シューマンは文学的能力にもたけており, 詩の改変と字句の変換等を頻繁に行っている。また, もともとピアニストを目指し, 多くのピアノ曲を作曲していたのだが同時代に生きたハイネの詩との出会いは歌曲作曲家としての地位を揺るぎないものにした。シューマンの歌曲の特徴は情感の表出は内的で抑制されている。ピアノ伴奏はアラベスクな描写に終始し, メロディーラインを目立たない様に平行になぞるか, あるいはメロディーの輪郭をくまどる方が多い。ピアノ伴奏つきリードを文学的表現にまで高めようとするところがシューマンとシューベルトの作品の違いである。13; それではここで全16曲の演奏法について触れてみたい。
著者
足立 文彦 門脇 正行
出版者
島根大学
雑誌
萌芽研究
巻号頁・発行日
2005

1日当たりの潅水量を同一にした条件で、潅水の頻度と時間を変化させた3つの潅水方法でサツマイモ品種テラスライム(丸葉黄葉)とベニアズマを栽培し、植被展開速度と物質生産を比較した。島根大学生物資源科学部3号館屋上に設置した高さ0.1mの木枠内に屋上緑化用軽量土壌をいれ栽培圃場とした。供試サツマイモ品種を5月下旬に、栽植密度2.5株/m^2で移植した。潅水は点滴潅水チューブに潅水タイマーを用いて日当たり約8mm/dayとなるよう与えた。朝1回潅水を行う区(朝1回区)、朝と昼に行う区(朝昼区)、約20分間隔に1分間潅水を行う区(常時潅水区)の3つの潅水処理を行った。植被展開速度をデジタルカメラによる画像解析法で求めるとともに、8月下旬から熱収支式各項(Rn、LE、H、G)、地温、気孔伝導度、土層毎の体積土壌水分含量を測定し、収穫期にバイオマス調査を行った。いずれのサツマイモ品種も葉面積が拡大する時期の植被展開速度は朝1回区に比較し、朝昼区、常時潅水区で大きく、常時潅水区が早期に植被を確立した。収穫期のバイオマス量も朝昼区、常時潅水区は朝1回区に比較して大きかった。朝1回区の気孔伝導度は午前中高いものの午後に急激に減少したのに対して、朝昼区、常時潅水区の気孔伝導度は午後も高く維持されていた。このことは、朝1回区の畝の表層土壌水分含量が午後に低下することに加えて、サツマイモの根長密度が表層に多く、下層には少ない根系特性を持つことから水分ストレスが生じ、物質生産が抑制されたものと示唆された。従って、日中の畝表層の土壌水分含量が高く維持されるよう、頻繁に灌水を行うことにより、日蒸発量程度に使用水量を限定した場合でもサツマイモの植被展開と熱低減が効率化できると結論された。
著者
松本 健一
出版者
島根大学
雑誌
基盤研究(C)
巻号頁・発行日
2014-04-01

関節可動亢進(III)型エーラス・ダンロス症候群(EDS)の診断法の確立のために、III型EDSの原因遺伝子の一つであるテネイシンX(TNX)の血清濃度の定量系の開発を、ESI-TSQ質量分析計を用いて行った。その結果、健常人の 血清型TNX 濃度は144 ng/mLであることが明らかとなった。また、III型EDS患者血清における病態バイオマーカーの同定のために、III型EDS患者の血清を用いて、健常人血清と比べて発現差異を示すタンパク質の解析をMALDI-TOF/TOF質量分析計を用いて行った。その結果、補体関連の6個のタンパク質が患者血清中において発現増加していることが明らかとなった。
著者
小谷 充
出版者
島根大学
雑誌
挑戦的萌芽研究
巻号頁・発行日
2011

本研究では, 羽良多平吉がタイトルデザインを担当した劇場用アニメーション『銀河鉄道の夜』(1985)を対象作品として,組版の再現実験をもとにタイポグラフィの特質とそのコンセプトを明らかにした。結果,対象作品に見られる特質は,羽良多が装丁を担当したますむら・ひろしの原案本においてすでに構築されていたことを指摘した。さらにその精緻な組版技法は,種々の関連媒体の同一性を視覚的に保持していたと結論づけた。
著者
上園 昌武 江口 貴康 関 耕平
出版者
島根大学
雑誌
山陰研究 (ISSN:1883468X)
巻号頁・発行日
vol.5, pp.1-18, 2012-12-31

筆者らは、2012年5月下旬から6月15日まで松江市民を対象に「島根原発についての意識調査」(質問項目65問) を行い、福島原発事故後の原発立地住民の意識構造の特徴を明らかにした。島根原発1~3号機の稼働の是非について、「稼働すべきではない」が半数以上を占め、「稼働すべき」を大きく上回った。稼働賛成者は「原発による経済効果」や「原発の安全性」への信頼が高いが、稼働反対者は、地震対策・津波対策・安全管理体制などへの不信感が強く、巨額の迷惑料を原発立地地域にばらまいたとしても、この層が原発推進や容認に安易に転ずるとは考えにくい。この点は、福島原発事故によって松江市民の原発への考え方が大きく変わったとみるべきである。この他にも、原発の賛否の立場の違いが「地元」の範囲、原発の発電コストの高さ、節電への取り組みに影響を与えていることが明らかとなった。
著者
堀口 淳 宮岡 剛 岡崎 四方 安田 英彰 和氣 玲 新野 秀人 宇谷 悦子
出版者
島根大学
雑誌
基盤研究(C)
巻号頁・発行日
2009

研究期間の入院患者総数は132人のうちDSM-IVに基づく診断基準で統合失調症と診断された27人、うち入院加療中にアカシジアが発現した患者は4人である。研究期間の統合失調症患者総数55人(平均年齢37歳)のうちアカシジアの発現した患者総数は11人でアカシジアの発現率は20. 0%である。アカシジアが改善しなかった患者3人に抑肝散(7. 5g/日、分3食前)を投与したが、3例ともアカシジアは改善しなかった。終夜睡眠ポリグラフ検査実施例は24例(13歳~75歳、平均年齢36. 7歳±11. 7歳)であり、うちビデオカメラ撮影可能であったのは3例である。従って抽出できた「覚醒時」ミオクローヌス患者は3例のみである。当初の計画及び目的に対する達成度は遅れてしまった理由として、研究期間前に全ての対象患者が多種類の抗精神病薬で既に治療開始されていた症例であったためアカシジアの発現率と「覚醒時ミオクローヌス」の有症率とを単純には比較できなかったことによる。
著者
京 健治
出版者
島根大学
雑誌
島大国文 (ISSN:02892286)
巻号頁・発行日
vol.30, pp.46-26, 2003-03-31
著者
藤岡 正春
出版者
島根大学
雑誌
島根大学教育学部紀要. 教育科学 (ISSN:0287251X)
巻号頁・発行日
vol.32, pp.29-38, 1998-12-01

柔道の創始にあたって嘉納は「唯々幾分かの改良を加えさえすれば,柔術は体育智育徳育を同時に為すことの出来る一種の便法と成ることが出来ると申せようと存じます。それで私は数年間工夫を凝らし遂に一種の講道館柔道と云ふものを拵えるた」と言い,柔術を母体にして柔道が集大成された。この柔術について「柔術には流派が幾個も有りまして,均しく柔術と云ふ名称で同じ様なことを致します(中略)又體術,和,柔道,小具足,捕手,拳法,白打,手持など,種々の名称が御座いますが,皆一種の柔術です」と言い,総括すると「無手或は短き武器を持って居る敵を攻撃し又は防御するの術」と言っている。この柔術の技術内容を見ると,堤宝山流では「刀槍・鎧組(鎧を着用して組打ちする柔術)の他に太刀・柔・小具足・鎖鎌・棒・薙刀・弓・馬・振杖」,また竹内流では「柔,捕手,小具足,拳,棒,仗,居合,薙刀,縄,短剣,浮沓」などである。その他「長巻,手裏剣,乳切木,鎖鎌,軍法,鉄扇,十手,騎射」等にまで及ぷ総合武術であり,戦場に於ける鎧組打ちという実戦の中で培われた武術が集大成されたものである。これらの柔術の中で最古の柔術は,小具足の術を主とするところから堤宝山流(慈恩・14世紀後半)が最も早く成立した流派と言う説もあるが,現存する歴史的資料で確認できる最古の柔術は天文元年(1532年)に創始された竹内流である。13; 気楽流拳法,柔道秘術之伝,捕手柔術の源に「吾朝に柔術といふ事,往古はなかりし也。唯相撲を以て戦場組討の習いとし,是を武芸の一つとせし也」6),また登假集の"古より相撲を以て柔術修行の事"項に「古より武芸の終始組討なる事,雖能知,柔組討といふ名目なく,唯武士の若き者集まり,相撲を以て身をこなし,理気味を去り,躰を和らかになして,一心正しくする事のみ執行せし事なり」7)とあるように,,相撲(武家相撲又は練武相撲)が戦場組打のための基礎となる体力養成の手段として又,実戦での経験や工夫等組討術修練の方法として重要視されていたことが分かる。13; この相撲は奈良・平安時代に行われていた三度節の一つである節会相撲から発展したものである。この節会相撲の最も古い記録は神亀6年(734)7月7日の天覧相撲である。貞観10年(868)に式部省から兵部省へ所管変えになるまで,式典的要素や娯楽的要素が高く練武的要素の低いものであったが,所管変え以降練武的要素が高まると共に式典的要素や娯楽的要素は徐々に稀薄となっていった。13; この節会相撲は,古事記の鹿島神宮の祭人である建御雷神と建御名方神が出雲の国を掛けて争った政治上の戦い(関節技が主)や日本書記の野見宿禰と当麻蹴速の力競で,相手を蹴り殺した徒手による打つ・蹴る・投げる・関節を取る等の方法で行われた古代の格闘技である争力(チカラクラベ)や桷力(スマイ)が発展したものである。13; 相撲は日本人の農耕生活と深い関わりをもつ。即ち,水稲の栽培は勤勉と忍耐・工夫に加え天候の影響を受けるため,時を定め相撲・弓射・踊りなどにより豊作を祈った。これが神事相撲へと発展する。そして食・住の安定に伴う流通経済の発展は,階級の分化とともに貴族社会の成立,同時に神事相撲は節会相撲の形式(三度会=正月の射礼,五月の騎射,七月の相撲)を取り,定例化され,高倉天皇承安4年(1174)平安朝の終りによって記録が絶つまで続いた。13; この様に柔道・柔術・組討(武家相撲・練武相撲)・節会相撲・神事相撲・徒手の格闘技と際限無く遡る。この様な柔術の発展過程に於ける起倒流系柔術の一流派である直信流柔道について,第一報において,起倒流及び直信流柔道の成立や直信(心)流柔術・柔道の名称,技法(変化)等について報告した。13; そこで本研究では,柔術という名称について,十三代師範,松下善之丞の直信流柔道業術寄品巻(柔説・柔演・柔第・警・歌),直信流柔遣業術書(本意・精粗・運轉・移響)にみられる思想について報告する。13;
著者
蘆田 耕一
出版者
島根大学
雑誌
山陰研究 (ISSN:1883468X)
巻号頁・発行日
vol.2, pp.184-167, 2009-12-31

『類題八雲集』をあらゆる観点から論じたものである。(1)諸本間において、「鶴山社中蔵板書目」の書名に違いがあり、または見返しの記載に有り無しが存在する。(2)編者や成立にはさしたる問題はないが、歌数が一三二〇首、歌人が三四四名は、ある地方だけの歌人の歌を収めたものとしては他に知られるものはなく、大部な歌集である。歌の取材源は明確ではないが、各地で催行された歌会や鶴山社中、亀山社中という歌壇結社での歌会から採用された可能性がある。(3)本集は「鶴山社中蔵板」とあり、地方版、私家版である。この「蔵板」で他に何点か上板している。(4)印刷部数や上板までの日数や費用については、一般的な事例を挙げたが、必ずしも明確ではない。本集は知られる限り三種類あるが、増刷されたのであろう。(5)地方版、私家版であるので、三都や名古屋等の拠点となる本屋が売り捌き所となっている。かなりの需要のあったことが分かる。(6)名所を詠んだ歌が多く見られ、有名なものから珍しい名所まであり、これも歌会で詠まれた可能性がある。13;
著者
福澤 仁之 塚本 すみ子 塚本 斉
出版者
島根大学
雑誌
Laguna : 汽水域研究 (ISSN:13403834)
巻号頁・発行日
vol.5, pp.55-62, 1998-03
被引用文献数
6

We have been collecting and analyzing sediment cores of non-glacial varved sediments around the Japanese Islands. In 1995, we were able to be collected 8 meters-long sediment core by using piston core sampler and recognized varved sediments of the last 3,000 years in the bottom sediments of Lake Ogawara, northern Japan. And also, two tephra layers which are named Towada-a tephra(To-a)and Baegdusan-Tomakomai(B-Tm)by Machida and Arai(1992)were recognized in the varved sequence. Machida(1992), and Koyama and Hayakawa(1995)have suggested that the chaotic eruption of Towada Volcano caused falling of To-a tephra over northern Japan occurred in AD 915. Based on varve counting of this sediment core, we can indicate that the sediments between To-a and B-Tm tephra layers were continuously deposited for 22 years. If the falling age of To-a tephra can be confirmed as AD 915 from historical documents, then we can show that B-Tm tephra was deposited from spring of AD 937 to summer of AD 938.13;7世紀から10世紀初頭にかけて,朝鮮半島北部から中国東北区やシホテ・アリンにかけて,東アジアの大国として繁栄した渤海国は,当時の日本と親密な関係を維持していたにもかかわらず,その成立と滅亡については謎の部分が多く,謎の王国と呼ば滅亡については謎の部分が多く,謎の王国と呼ばれる。しかも,渤海国はまわりの諸国とくに新羅や契丹などとの関係上,日本に対して渤海使を35回も派遣している(日下,1992)。この渤海国は西暦698年に建国され,西暦926年に契丹の侵入によって滅亡するまで約200年間繁栄したと考えられている。渤海国の繁栄に比べて,その滅亡はより謎が多い。これは,契丹に滅ぼされた時に,徹底的な破壊を受けたためにその痕跡をほとんど残していないことに理由がある。13;この渤海国の滅亡については,1988年にNHKが特別番組として制作した「まぼろしの王国・渤海」で,渤海国の突然の消滅・滅亡が渤海国南部にそぴえる白頭山(標高2,744m)の大噴火によって,その首都上京龍泉府がかのベスビオス火山の山麓の街ポンペイのように一日にして火山灰に埋もれたためことが原因であるとするドラマチックな仮説が示されたことがある。これに対して,渤海国の歴史に詳しい上田 雄などの歴史学者から厳しい反論がある(上田,1992)。それによれば,上京龍泉府は白頭山の北北西方250kmにあり,白頭山が大噴火を起こしたとしても,偏西風の風下にもない上京龍泉府に多量の火山灰が降下したとは科学的にまったく考えられないという(上田,1992)。そして,渤海国の滅亡は極めて突然であり,そして忽然と消え去ったことは事実であるが,その滅亡の直接の原因は,契丹の耶律阿保機に襲撃されたためであり,そのことは「遼史」ほかに詳細に記録されていると述べ,白頭山の噴火の時期も地層(堆積物)からだけで歴史学の求めるオーダーの世紀,年代を決めつけることは不可能であると述べている(上田,1992)。13;白頭山の大噴火と渤海国の滅亡との関係を明らかにする目的で,町田 洋は中世における白頭山の噴火規模およびその年代の推定に精力的に取り組んでいる。それによれば,この白頭山の噴火規模はフィリピンのピナツボ火山における1991年の噴火規模のおよそ1O倍の規模であり,過去2,000年間で最大の噴火であるスンダ諸島のタンボラ火山における1815年の噴火に匹敵するものと考えられている(町田,1992)。そして,この大規模噴火の火山灰は東北日本北部から北海道南部・道央南部に分布しており,白頭山一苫小牧火山灰(B-Tm)と呼ばれている(町田・新井,1992)。また,東北日本北部で白頭山一苫小牧火山灰層の直下1cm~2cm下位に発達する十和田a火山灰(To-a)の「扶桑略記」に記載された降灰年代やそのラハール堆積物に埋没した秋田杉の年輪年代学的検討によって,十和田a火山灰降灰が西暦915年であることが明らかになり,白頭山一苫小牧火山灰の降灰年代は西暦915年以降である可能性を示した(町田,1992;1994)。この見解は,渤海国の滅亡に対して,自然環境変動の面から白頭山の大噴火が大きな影響を与えた可能性を指摘したものである。13;一方,町田(1992;1994)の見解に対して,小山真人と早川由紀夫は歴史資料として「高麗史」や「興福寺年代記」の記載を引用して,中世における白頭山の噴火は946年以前のあまり遡らない時期に開始して,西暦947年前半ぐらいに終了したことを示した(早川・小山,1998)。そして,渤海国がその噴火で滅亡した仮説(町田,1992)があるが,渤海国の滅亡は西暦926年であり,白頭山の噴火開始がその滅亡を決定づけたことはあったとしても,直接の誘因ではなさそうであるとの見解を示した(早川・小山,1998)。13;本論文では,白頭山一苫小牧火山灰の降灰ひいては白頭山の中世における大噴火に関して,青森県太平洋側に位置する小川原湖の湖底堆積物に認められた「年縞」を用いて,以下の2つの問題に対して答えを与えることを目的とする。1)渤海国の滅亡に白頭山の中世における大噴火が本当に影響を与えたか?、2)白頭山一苫小牧火山灰と十和田a火山灰の降灰した季節はいつ頃で,どれくらい継続したのか?