著者
諸 洪一
出版者
札幌学院大学人文学会
雑誌
札幌学院大学人文学会紀要 (ISSN:09163166)
巻号頁・発行日
no.81, pp.41-64, 2007-03

明治九年に締結された江華島条約(日朝修好条規)については,様々な評価がつきまとう。対極にある二つの評価のうち,日本における従来の評価は,朝鮮を開国して国際社会に導き「啓誘」する条約だったとする。一方,韓国および日本の一部における従来の評価は,朝鮮を開国させたが,それは「一方的」なものであり,さらに「侵略」の始まりとなった条約だったとする。いずれの評価も朝鮮は受け身に転じている。ところが,このような従来の評価に対して最近,韓国側から新しい見解が続々と発表されている。すなわち江華島条約は,朝鮮側が積極的であってむしろ日本側が消極的だったとするのである。この逆転の解釈は,朝鮮側の史料に立脚する主張である。では何故このような大きな解釈の転換が行われたのであろうか。本稿は,韓国側の新たな見解を念頭におきつつ日本側の史料を中心にして条約の性格と交渉の実態にアプローチする。先行研究ではほとんど触れていない外務大丞宮本小一なる人物に焦点を合わせ,宮本の「朝鮮論」を中心に,江華島条約の性格と実態に迫っていきたい。
著者
諸 洪一
出版者
札幌学院大学
雑誌
基盤研究(C)
巻号頁・発行日
2005

平成17年度〜平成19年度の科学研究費補助金を受けて行った本研究の課題は、宮本小一の「朝鮮論」と宮本が進めた日朝修好条規(以下、通称の江華島条約と略す)および「附属条約」であり、明治初期の日本の外交政策における宮本の朝鮮政策の意義と位置づけを試みた。研究結果の概要は次の通りである。1.江華島条約を構想し、この構想に沿って交渉を進めたのは、宮本であったことを明らかにした。江華島条約の構想は、明治2年末の宮本の「朝鮮論」が下地になった。江華島条約は、宮本の穏健かつ穏便な「朝鮮論」に則って成約に到っていた。今までの江華島条約に対する評価は、受け身に徹する朝鮮側とこれに一方的な強要をする日本側との対立構図として描かれていた。しかし本研究の結果江華島条約は、宮本の穏健な「朝鮮小国論」に基づいた日本側の消極的な朝鮮開国交渉と、日朝外交通商体制を主導的に措定しようとする朝鮮側の積極的な交渉とが、大きな対立点を露呈することもなく折り合って成立したことを明らかにした。2.江華島条約同然その「附属条約」を構想し交渉に当ったのも、宮本であったことを明らかにした。宮本が成約に導いた江華島条約は、日本外交の穏健論の集大成であり、したがって理事官宮本によって進められた「附属条約」は、当然ながら宮本の穏健かつ穏便な外交政策が実行されたものであった。ただし宮本の穏健外交とは相容れない強硬論の京城公使館設置問題が、宮本によって主張された。京城公使館設置問題は、榎本武揚によって提起された問題であった。宮本の穏健路線の連続である「附属条約」交渉に、急遽公使館設置のような強硬論が試されたのは、榎本による「英国」流の権力政治観と原理原則的な万国公法の適用を試みる強硬外交が台頭してきたためであった。その後の日本外交は、穏健な宮本外交から強硬な花房(榎本)外交へ転換していくのである。
著者
諸 洪一
出版者
札幌学院大学総合研究所
雑誌
札幌学院大学人文学会紀要 (ISSN:09163166)
巻号頁・発行日
no.96, pp.1-30, 2014-10

ペリーは如何にして日本を「開国」したのであろうか。本稿は、「無能」な幕府が、「不平等条約」を、アメリカに強要されるがまま受け容れた、とする日本の開国史の言説に再検討を加えるものである。ところで全く同じような言説が、日本による朝鮮の開国史にもまかり通っており、筆者はすでにこれを批判する論考を発表したことがある。ペリーと明治政府が、幕府と朝鮮に対して行った交渉は、砲艦外交には間違いないが、決して一方的な押しつけではなく、幕府も朝鮮も自前の伝統的外交論理でもって交渉に臨んでいた。何れの交渉も、互いの所与の条件を押し合い譲り合ったネゴシエーションであったが、後の日朝交渉は、日米交渉を学習したものだったのではなかろうか。How did Matthew C. Perry open Japan? This paper reexamines the claim that the United States forcefully imposed an "unequal treaty" on an "incompetent" Shogunate. There exists a similar claim that Japan opened Korea by similarly imposing an "unequal treaty" on an "incompetent" Chosun government. I have previously clarified that the Treaty of Ganghwado was concluded through a moderate form of negotiation. Without doubt, some degree of gunboat diplomacy occurred between the U.S. and Japan, as well as between Japan and Korea. However, both case of gunboat diplomacy was not completely one-sided. Japan's negotiation to the U.S. and Korea's negotitation to Japan were founded on traditional principles and reasonings, and all parties negotitated with under the given conditions and mutual concessions. Further, I believe that Japan's negotiation with Korea may have been based on how the United States negotiated with Japan.論文Article