著者
谷山 正道
出版者
天理大学
雑誌
基盤研究(C)
巻号頁・発行日
1996

幕府寛政改革に関する研究は、享保および天保のそれに比べて大きく立ち遅れていたが、1960年代に入って以降前進をとげるようになった。しかし、そこで主に分析対象とされたのは、東国幕領に対する改革農政(「名代官」による農村復興のための諸政策)であり、西国幕領に対するそれについては視野の片隅におかれ続けてきた。こうした研究状況をふまえて、本研究では、西国特に先進地畿内の幕領を主なフィールドとしてそこから幕府寛政改革を見つめなおすことを課題とし、平成8年度から10年度にかけて関係史料の調査・収集を進めた。寛政改革を主導した老中松平定信は、それまでの西高東低の経済状況を是正し、劣勢であった「東」の地位を高めようとした政治家としてよく知られている。これに関わって注目されるのは、改革農政も「西」と「東」の実状をふまえ、双方をにらんだ形で展開されていった事実である。その代表例は公金貸付政策であり、公金の貸付を媒介として「西」の経済的なゆとりを「東」の窮民の救済にあてようとする側面を有していた。これと併行して、農村荒廃が進んでいた東国の幕領に対してはその復興に力点をおいた諸政策が推進されていったが、西国特に先進地畿内の幕領では、改革政権成立当初の御料巡見使への数多くの訴願や国訴の展開からうかがえる民衆の期待や願いに反して、年貢の増徴に力点がおかれ、改革後期には勝与八郎を中心に年貢増徴をめざした政策が本格的に推進されていった。これによって、一定の増徴は実現されたが、民衆の反対の声が高まるようになり、結局十分な成果をあげえないまま、他の政治問題もかかわって、松平定信は退陣を余儀なくされるに至った。