著者
金丸 英子
出版者
西南女学院大学
雑誌
西南女学院大学紀要 (ISSN:13426354)
巻号頁・発行日
vol.8, pp.52-58, 2004

近代アメリカ・プロテスタント教界を代表するワルター・ラウシェンプッシュ(Walter Rauschenbusch,1861-1918)の代表的な著作、『Christianity and Social Crisis』(1907年出版)から、ラウシェンブッシュが唱導した社会的福音において、社会福祉がどのように捉えられていたかを探る。また、ラウシェンブッシュの主張の中に、キリスト教の使信と社会福祉理念を切り結ぶ哲学的な接点を見出してゆき、キリスト教主義大学で福祉を学ぶ人たちにキリスト教から提供しうる視点を模索する。
著者
金丸 英子 カナマル エイコ KANAMARU Eiko
出版者
西南学院
雑誌
西南学院史紀要
巻号頁・発行日
no.6, pp.49-59, 2015-05

アサ会は、1930年代、独立伝道者であった田中遵聖(たなか・じゅんせい、本名種助[1886-1958]、以後田中)によって始められたキリスト教運動で、現在の日本バプテスト連盟の前身にあたる日本浸礼派教会西部組合(以後西部組合)に大きな衝撃を与えた。西部組合とは、当時九州に点在していた南部バプテストの流れを汲む諸教会が伝道協力のために組織した団体である。アサ会の存在は、いわゆる「アサ会事件」として教会関係者の間で憶えられているが、その影響は実に西南学院にまで及び、第三代院長G.W.ボールデン(以後ボールデン)の解任を惹き起こした。これについて『西南学院七十年史』は「院長となったボールデンを決定的な窮地に追いこんだのは、『アサ会』事件である」と記し、ボールデンの院長辞任をアサ会との関係で伝えている(『西南学院七十年史』上巻612頁)。本学神学部卒業生のバプテスト史研究者枝光泉は、この「アサ会事件」を「1930年代の初頭にあって、『一教会の独立を認め、他の誰にも干渉されない(バプテスト派の)原則』からは離れていた西部組合が、ミッション依存の体質から抜け出し、歩み出そうとしたときに起った象徴的出来事」と説明している(『宣教の先駆者たち』、240頁)。枝光が指摘するように、「アサ会事件」が優れて教会関係の出来事であるならば、なぜそれが西南学院院長の辞職と結び付けて語られるのだろうか。アサ会に関する研究は、ほとんどなされていないと言っても過言ではない。関連文献も皆無に等しい。強いて挙げれば、田中の息子である直木賞作家田中小実昌(1925-2000)が、『アメン父』で田中とアサ会についてノンフィクション風にその様子を伝えている(因みに、小実昌はこの本で1979年の谷崎潤一郎賞を受賞した)。研究文献に値するものとしては、辛うじて、『日本バプテスト連盟史1889‐1959』(日本バプテスト連盟)、『西南学院七十年史』、枝光の『宣教の先駆者たち』(ヨルダン社、2001年)のみであろう。特に枝光の研究は、現存する唯一の邦文学術研究として貴重である。本稿ではこれら文献から学びつつ、ボールデンの自叙伝(英文、未刊行)、複数の宣教師による活動報告、個人書簡、日記、当時の高等学部教員波多野培根が残した文書を用いて、ボールデンの院長解任から見えてくる西南学院とアサ会の関係を探り、そこから透けて見える学院史の一端を見てみたい。
著者
金丸 英子
出版者
西南女学院大学
雑誌
西南女学院大学紀要 (ISSN:13426354)
巻号頁・発行日
vol.11, pp.51-56, 2007

ニューイングランド植民地で長年、社会のマイノリティーに留まっていたバプテストは、独立戦争の際、植民地の公的宗教権威である植民地教会と共に対英姿勢を顕著にし、独立戦争を支持し参戦することで、社会的マジョリティーとなっていった。バプテストは自らの伝統的な特長である信教の自由と政教分離の主張のゆえに、植民地教会かと相容れず、迫害を受けてきたにもかかわらず、アメリカの自由と独立の獲得という共通の目的のもとに共に戦う仲間となった。これによってバプテストは社会的マジョリティーとなったが、同時に、独立国となったアメリカという政治的・社会的文脈において、信教の自由と政教分離の主張に、新しい解釈が要求されるようになった。それはいかなるものであったか。バプテストが社会的マジョリティーとなった時、喪失したものがあるとすれば、それは何か。この小論で問うてみたい。