著者
長田 浩彰
出版者
広島大学
雑誌
基盤研究(C)
巻号頁・発行日
2007

本研究において研究代表者は、ナチの言うドイツ人とユダヤ人の「人種混淆」に対する住民意識が、それを禁止したニュルンベルク法(1935)以前と以後では、どう変化していったのかを、当時の小説や映画、ナチ党関係の雑誌類、現実の裁判事例などを分析対象として研究した。ナチ体制下では、性犯罪者的ユダヤ人イメージとえせ科学的劣等人種イメージが並存する中、禁止立法を経ても、「混血」を罪悪とするイメージが一般化するまでに至らなかったことが、最終的な本研究の結論となる。
著者
長田 浩彰
出版者
広島大学
雑誌
基盤研究(C)
巻号頁・発行日
2004

本研究は、祖父母の代に3人以上ユダヤ教徒がいたために、第三帝国下でユダヤ人とされた「ユダヤ人キリスト教徒」の動向に関する研究である。ベルリン工科大学反ユダヤ主義研究センターのアルヒーフや、ルートヴィヒスブルク州立文書館の非ナチ化裁判史料などを主に利用して、整理・分析することで、以下の結果を得た。(1)1943年2月末、ベルリンで発生した「ローゼン通り抗議」の実像を分析し、それが神話化されているドイツの現状を確認した。ユダヤ人一斉検挙で連れ去られた混合婚のユダヤ人配偶者の釈放を求めて、ドイツ人配偶者がベルリン・ローゼン通りに集まって抗議することで、前者の釈放を勝ち取ったという経緯は、後に行動が美化されることで生まれた神話であり、実際には、混合婚のユダヤ人配偶者は当初から東部移送の対象ではなかった、という研究者グルーナーの説を、史料から確認した。(2)混合婚夫婦から生まれた子供たちは、混血者として、部分的な迫害の対象となった。ベルリンにおけるヘルムート・クリューガーの事例に関して、彼の手による回顧録を実際の迫害措置と対比して検証した。(3)「ユダヤ人キリスト教徒」の相互扶助団体「パウロ同盟」のシュトゥットガルト支部を率いたエルヴィン・ゴルトマンの行動に関して、特に彼が子どもたちに残した遺稿を分析した。そこから、国外移住を拒絶してドイツに留まり、一方で対ナチ協力を強いられつつも、自身と家族に降りかかる迫害にゴルトマンが耐えた背景には、ナチ・ドイツとは別のドイツに対する彼の祖国愛と、篤いキリスト教信仰があったことを明らかにした。また、この点に関しては、ゴルトマンの対ナチ協力に関する、戦後の非ナチ化裁判史料を分析する中でも確認できた。さらに、裁判史料から次の点も確認できた。初審では、刑事裁判での検事に相当する公訴人側が求めたとおりの「重罪者」評決が出た。控訴審では、当事者ゴルトマン側に有利な供述書が提出されたにもかかわらず、また、公訴人側も第2グループである「有罪者」へと罪状認定を引き下げたにもかかわらず、評決は「重罪者」で動かなかった。「潔白証明書」を発行して非ナチ化を終了させる、という従来の非ナチ化についてのイメージとは逆の、厳しい評決であった。女性の非ナチ化にも見られたように、必要以上に高い倫理・道徳性が、当事者に求められていた。その理由は、裁くドイツ人の側に、第三帝国下でユダヤ人を見殺しにしたという負い目と、「女性的」とも言える「無辜の被害者」という「ユダヤ人イメージ」が存在したことで説明できる。このイメージから外れる「対ナチ協力者」という嫌疑だけで、事実如何の吟味の前に、ゴルトマンは断罪されたのである。ここに、非ナチ化裁判・控訴審の問題性がうかがえた。
著者
長田 浩彰
出版者
広島大学
雑誌
基盤研究(C)
巻号頁・発行日
1999

従来我が国におけるドイツ史研究では、ナチ第二帝国下の対ユダヤ人政策については研究が行われてきたが、それに対するドイツ・ユダヤ人の対応については、あまり関心が向けられてこなかった。本研究は、その点を補うため、今までの同化が否定され、権利が徐々に剥奪されていく当時のドイツにおいて、ドイツ・ユダヤ人がどう対応したのかを分析することで、自身をどう認識していたのかを考察する。例えば、彼らには亡命や移住による出国といった選択も41年まで可能だったが、経済活動からの排除という厳しい措置が実施される直前の38年当初でも、まだ彼らの7割強(33年と比較)がドイツに留まっていた。ここには、第三帝国下でもドイツ国民として、ドイツで生活しようとした彼らの姿勢が想定された。そんな彼らの自己認識を、以下の諸組織の分析から明らかにした。・従来、言動が親ナチ的で否定的な評価を受けてきたユダヤ人青年組織「ドイツ先遣隊」(1933-35)やその指導者シェープスの思想を分析することで、彼らが決してナチズム自体を信奉したのではなく、ナチ政権と保守思想を持つユダヤ人との共存の可能性を模索していたことを明らかにした。・「ドイツ先遣隊」のような小組織だけでなく、ユダヤ系組織のなかで第2位の規模を持つ「ユダヤ人前線兵士全国同盟」(1919-38)もまた、35年の国防法や、ニュルンベルク法まで、ユダヤ人のドイツ社会での生活の存続に尽力した。35年以降は、この組織は、パレスチナ以外後へのユダヤ人移住に尽力することで、自身のドイツ人としての意識の保持に努めようとしたことが明らかとなった。・研究発展のため、ユダヤ人扱いされた「非アーリア人キリスト教徒」の動向の研究史整理をした。