著者
高 明珠
出版者
同志社大学
雑誌
同志社政策科学研究 (ISSN:18808336)
巻号頁・発行日
vol.14, no.1, pp.93-109, 2012-09

研究ノート・資料(Note)横井・高(2012)は、清末の10年間(1901年―1911年)において清朝政府がほぼ唯一の留学先として日本を選定した背景を明らかにした上で、日本への留学生派遣政策が奨励から引き締めへ転じた経緯も概観した。すなわち、清朝政府は国内で教育・軍事・政治体系の改革を実行するのに必要な人材を、出来る限り多くかつ迅速に育成するため、日本を第一の留学先に選び、試行錯誤を経て、最初の奨励方針から質の引き締めへと転じる、一連の政策を打ち出した。しかしながら、清朝政府の留学生派遣政策の効果については論じていなかった。そこで本稿では、日本への留学生の帰国後のパフォーマンスを検証することによって、清朝政府の留学生派遣政策の効果を検証する。本稿では、まず、ピーク期に達した1907年前後の清国人の日本留学の実態、すなわち法政、教育、軍事に関する速成教育を受けた留学生の比率が明確に高かったことを検証する。次に、帰国した留学生の出世ルートとして清朝政府が実施した留学生登用試験とその結果を検討し、数多くの法政留学生が国家の改革を推進する行政機関に抜擢された事実を明らかにする。さらに、法政、教育、軍事および文化の面における留学生の歴史的な貢献を紹介する。最後に、清末の日本留学生の全体像を把握した上で、このような結果をもたらした留学生政策の効果と問題点を指摘する。
著者
横井 和彦 高 明珠
出版者
同志社大学
雑誌
經濟學論叢 (ISSN:03873021)
巻号頁・発行日
vol.64, no.1, pp.103-143, 2012-07

研究ノート(Note)清朝政府は,19世紀半に開国を余儀なくされるとともに西洋技術導入政策を展開した.その1つが留学生派遣であった.1872年,最初にアメリカに派遣したのちは,イギリス・フランスに派遣した.日清戦争後,派遣先は日本に転換した.日本留学生数は1906年には1万人を超え,隆盛期を迎えたが,両国で各々留学生の質や日本留学の質が問題となり,隆盛期は終焉した.こうした留学生派遣政策の展開を検証し,さらに日本の留学生派遣政策との比較によって問題点とその原因を検討した.Between the 1860s and 1890s the Qing government felt compelled to implement a series of open-door policies in order to introduce western intelligence into China, one of which was to send students overseas. The Qing government intermittently sent approximately 200 students to the United States, Britain, and France between 1872 and 1890. However, the main destination for overseas students shifted to Japan after China's defeat in the Sino–Japan war of 1895. The number of Chinese studying in Japan peaked at 10,000 in 1906, but then plummeted because of the Qing government's tight policy on retaining the quality of overseas students. This article describes the background and problems of these policies by means of a comparison with Japan in the Meiji period.