著者
高山 秀三
出版者
京都産業大学
雑誌
京都産業大学論集. 人文科学系列 (ISSN:02879727)
巻号頁・発行日
vol.48, pp.281-316, 2015-03

三島由紀夫は少年期からニーチェを愛読し,大きな影響を受けた。ニーチェと三島には,女性ばかりに取り囲まれた環境で幼少期を過ごしたという共通性がある。女性的な環境で育った人間が自身のうちなる女性性と戦うなかで生れたニーチェの哲学は,受動性や従順,あるいは柔弱さなどのいわゆる女性的なものに対する嫌悪を多分に含んでいる。それは思春期の自我の目覚めとともに男性的な方向に向けて自己改造をはじめていた三島の気持に大いにかなうものだった。戦時中,十九歳のときの小説『中世に於ける一殺人常習者の遺せる哲学的日記の抜萃』は三島自身がニーチェのつよい影響のもとで書いたことを認める作品である。無差別的な大量殺人を行なう「殺人者」の思いを日記体でつづったこの小説にあって,「殺人者」はその「殺人」によって,失われていた生の息吹を取り戻す。この「殺人」は三島が目指す危険な芸術の比喩であると同時に殺人という悪そのものである。ここには幼少期以来,攻撃性の発露を妨げられ,健全な生から疎外されているという意識に苦しみつづけてきた三島の,生を回復するための過激な覚悟が反映している。そしてこの覚悟は,三島と同様に女性に囲まれた幼少期を送り,自分の弱さと世界における局外者性の意識に苦しみながら,男性的なヒロイズムをもって自分を乗り越えていく思想を語りつづけたニーチェの戦闘的な著作への共感から生れている。
著者
高山 秀三
出版者
京都産業大学
雑誌
京都産業大学論集. 人文科学系列 (ISSN:02879727)
巻号頁・発行日
vol.48, pp.281-316, 2015-03

三島由紀夫は少年期からニーチェを愛読し,大きな影響を受けた。ニーチェと三島には,女性ばかりに取り囲まれた環境で幼少期を過ごしたという共通性がある。女性的な環境で育った人間が自身のうちなる女性性と戦うなかで生れたニーチェの哲学は,受動性や従順,あるいは柔弱さなどのいわゆる女性的なものに対する嫌悪を多分に含んでいる。それは思春期の自我の目覚めとともに男性的な方向に向けて自己改造をはじめていた三島の気持に大いにかなうものだった。戦時中,十九歳のときの小説『中世に於ける一殺人常習者の遺せる哲学的日記の抜萃』は三島自身がニーチェのつよい影響のもとで書いたことを認める作品である。無差別的な大量殺人を行なう「殺人者」の思いを日記体でつづったこの小説にあって,「殺人者」はその「殺人」によって,失われていた生の息吹を取り戻す。この「殺人」は三島が目指す危険な芸術の比喩であると同時に殺人という悪そのものである。ここには幼少期以来,攻撃性の発露を妨げられ,健全な生から疎外されているという意識に苦しみつづけてきた三島の,生を回復するための過激な覚悟が反映している。そしてこの覚悟は,三島と同様に女性に囲まれた幼少期を送り,自分の弱さと世界における局外者性の意識に苦しみながら,男性的なヒロイズムをもって自分を乗り越えていく思想を語りつづけたニーチェの戦闘的な著作への共感から生れている。
著者
高山 秀三
出版者
京都産業大学
雑誌
京都産業大学論集. 人文科学系列 (ISSN:02879727)
巻号頁・発行日
vol.55, pp.57-89, 2022-03-31

トーマス・マンは信仰の人ではなかったが,その作品にはキリスト教的なモチーフが多く取り扱われている。マンにとって,キリスト教はヨーロッパ文化の根底にあるものとして生涯をとおして大きな関心の対象だった。『ブッデンブローク家の人々』はプロテスタンティズムを精神的基盤とするドイツの市民社会を舞台とする小説であり,マンにとってはじめて本格的に宗教を取り扱うことになった作品である。この小説では,市民社会のなかでプロテスタンティズムが息づいている様相が,人々の具体的な生活を通して活写されている。舞台となっている時代は大きな社会変動の時代であり,プロテスタンティズム信仰の衰退期でもあった。『ブッデンブローク家の人々』は資本主義の進展や教養市民層の興隆などの社会変動に対応できないままに,信仰を失っていった伝統的な市民家族の四代にわたる没落の歴史である。本論はこの一族の没落と信仰喪失の過程に焦点をあてている。
著者
高山 秀三
出版者
京都産業大学
雑誌
京都産業大学論集. 人文科学系列 (ISSN:02879727)
巻号頁・発行日
vol.47, pp.279-320, 2014-03

三島由紀夫はゲーテやトーマス・マンに傾倒していたが,このことは必然的に彼らがその代表者だったドイツ教養小説の伝統に三島が何らかのかたちで影響を受けていたことを意味する。教養小説(Bildungsroman)はゲーテの『ヴィルヘルム・マイスターの修行時代』やマンの『魔の山』のように,素朴な青年を主人公として,その内面的成長を描く文学ジャンルである。教養小説の主人公は人生の意味を探究し,教養Bildungを身につけようという人文主義的な理想を抱いている。教養小説は,市民階級興隆期の産物であって,その人生肯定的性格も当時の市民層のもつ楽観性から生じている。 三島文学にシニシズムや虚無感や破壊衝動が濃厚であることを考えれば,三島由紀夫と,根本的に理想主義と人生肯定を特質とする教養小説は一見まったくそぐわない。しかし,否定的な傾向を前面に押し出ている三島文学のなかにも生を肯定することへの志向はひそかに存在している。『潮騒』はその顕著な一例だが,おしなべて『仮面の告白』や『金閣寺』など三島の青年期の小説には,その自伝的な要素のなかに意外につよい教養小説的性格を読みとることができる。本論は,三島の青年期最後の記念碑的作品である『鏡子の家』を『魔の山』と比較しながら,そのひそかな教養小説的性格を明らかにしている。市民層没落の時代に書かれた『魔の山』は,『ヴィルヘルム・マイスターの修行時代』のようには明るい未来を予示する展開を持ち得ず,あくまでもパロディー的な教養小説になっている。同様に,『鏡子の家』もニヒリズムが蔓延する時代の芸術作品である以上,そこで人文主義的な教養理想が高らかに歌い上げられるというようなことはない。むしろ,三島由紀夫はこの小説を「ニヒリズム研究」の書であると公言している。しかし,この小説の執筆時において人生との和解を志していた三島が,この小説にひそかな教養小説的性格を与えたことは注目に値する。