著者
高田 貫太
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.217, pp.239-259, 2019-09

5~6世紀前葉の朝鮮半島西南部には,竪穴式石室や竪穴系横口式石室が展開する。これらは,伝統的な木棺や甕棺とは異なる外来系の埋葬施設であり,その受容や展開の背景について検討することは,当時の栄山江流域やその周辺に点在した地域集団の対外的な交渉活動を,微視的な視点から明らかにすることにつながる。そのための基礎的な整理として,それぞれの事例の構造や系譜について,日朝両地域の事例との比較を通して検討を行った。その結果,5世紀前半の西南海岸地域に点在する竪穴式石室については,日本列島の北部九州地域の竪穴式石室に直接的な系譜を求めることが可能であり,基本的には当地へ渡来した倭系集団が主体となって構築した可能性が高いと推定した。その一方で栄山江流域に分布する竪穴系横口式石室については,特定の地域に限定した系譜関係をみいだすことは難しく,むしろ嶺南地域や中西部地域,あるいは北部九州地域の石室構築の技術を多様に受け入れ,それを各部位に選択的に取り入れながら,特色のある墓制を成立させたと把握できる。5世紀後葉~6世紀前葉においても,栄山江流域には竪穴系横口式石室が展開している。それを採用する古墳は,前方後円墳や在地系の高塚古墳などであり,地域社会が主体的に横穴系の埋葬施設(やそれにともなう葬送儀礼)を定着させつつあったことを示している。
著者
高田 貫太
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.211, pp.487-512, 2018-03

近年,朝鮮半島西南部で5,6世紀に倭の墓制を総体的に採用した「倭系古墳」が築かれた状況が明らかになりつつある。本稿では,大きく5世紀前半に朝鮮半島の西・南海岸地域に造営された「倭系古墳」,5世紀後葉から6世紀前半頃に造営された栄山江流域の前方後円墳の造営背景について検討した。5世紀前半頃に造営された西・南海岸地域の「倭系古墳」を構成する諸属性を検討すると,臨海性が高く,北部九州地域における中小古墳の墓制を総体的に採用している。よって,その被葬者はあまり在地化はせずに異質な存在として葬られたと考えられ,倭の対百済,栄山江流域の交渉を実質的に担った倭系渡来人として評価できる。そして,西・南海岸地域の在地系の古墳には,多様な系譜の副葬品が認められることから,海上交通を基盤とした地域集団の存在がうかがえる。倭と百済,または栄山江流域との交渉は,このような交渉経路沿いの要衝地に点在する地域集団の深い関与のもとで,積み重ねられていたと考えられる。5世紀後葉から6世紀前半頃,栄山江流域に造営された前方後円墳と,在地系の高塚古墳には,古墳の諸属性において共通性と差異性が認められる。これまで両者の関係は排他的もしくは対立的と把握される場合が多かったが,いずれの造営集団も,様々な交通路を利用した「地域ネットワーク」に参画し,倭や百済からの新来の墓制を受容していたという点において,併存的と評価すべきである。したがって,前方後円墳か在地系の高塚古墳かという違いは,諸地域集団の立場からみれば,新来の墓制に対する主体的な取捨選択の結果,ひいては百済中央や倭系渡来人集団との関わり合い方の違いの結果と評価できる。このような意味合いにおいて,その被葬者は基本的には百済や倭と緊密な関係を有した栄山江流域の諸地域集団の首長層と考えられる。ただし,倭や百済との活発な交渉,そこから渡来した集団の一部が定着した可能性も考慮すれば,その首長層に百済,倭に出自を有する人々が含まれていた可能性もまた,考慮しておく必要はある。In the southwestern Korean Peninsula, some tombs were built based on the burial practices of Yamato in the fifth and sixth centuries. While recent studies are elucidating the background of these Japanese-style tombs, this article broadly examines the background of Japanese-style tombs built in the southern and western coastal areas of the Korean Peninsula in the early fifth century and keyhole tombs built in the Yeongsan River Basin in the late fifth and early sixth centuries.Japanese-style tombs built in the southern and western coastal areas of the Korean Peninsula in the early fifth century were characterized by their nearness to the sea and their burial practices informed by those of small and medium-sized tombs in the northern Kyūshū region. These characteristics imply that the occupants of Japanese-style tombs had not assimilated into the local culture and were buried as foreigners. They seem to have been Japanese immigrants who played a substantial role in negotiations between Yamato and Baekje or other kingdoms in the Yeongsan River Basin. Moreover, the diversity in grave goods unearthed from local-style tombs in the southern and western coastal areas indicates the existence of local clans thriving with marine trades. The active engagement of such local clans based in major hubs along trade routes seems to have strengthened diplomatic relations between Yamato and Baekje or other kingdoms in the Yeongsan River Basin.Keyhole tombs and local-style burial mounds built in the Yeongsan River Basin in the late fifth and early sixth centuries have similarities and differences in their burial practices. Although most previous studies suggested that they had been exclusive or opposed to each other, the fact that all of the clans that built these tumuli participated in a regional network of various trade routes and accepted new burial practices from Yamato and Baekje implies that these two styles of tumuli coexisted without excluding each other. From the perspective of local clans themselves, the selection between keyhole tombs and local-style burial mounds was a mere result of their decisions on what new burial practices to adopt and what relations to build with the central government of Baekje and Japanese immigrants.In this sense, Japanese-style tombs in the Yeongsan River Basin are principally attributed to chiefs of local clans who had close relationships with Baekje and Yamato. Given that these local clans interacted so actively with Baekje and Yamato and that some of immigrants may have settled in the basin, it is also worth considering the possibility that some of the chiefs interred in Japanese-style tombs originally came from Baekje or Yamato.
著者
高田 貫太
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.211, pp.487-512, 2018-03-30

近年,朝鮮半島西南部で5,6世紀に倭の墓制を総体的に採用した「倭系古墳」が築かれた状況が明らかになりつつある。本稿では,大きく5世紀前半に朝鮮半島の西・南海岸地域に造営された「倭系古墳」,5世紀後葉から6世紀前半頃に造営された栄山江流域の前方後円墳の造営背景について検討した。5世紀前半頃に造営された西・南海岸地域の「倭系古墳」を構成する諸属性を検討すると,臨海性が高く,北部九州地域における中小古墳の墓制を総体的に採用している。よって,その被葬者はあまり在地化はせずに異質な存在として葬られたと考えられ,倭の対百済,栄山江流域の交渉を実質的に担った倭系渡来人として評価できる。そして,西・南海岸地域の在地系の古墳には,多様な系譜の副葬品が認められることから,海上交通を基盤とした地域集団の存在がうかがえる。倭と百済,または栄山江流域との交渉は,このような交渉経路沿いの要衝地に点在する地域集団の深い関与のもとで,積み重ねられていたと考えられる。5世紀後葉から6世紀前半頃,栄山江流域に造営された前方後円墳と,在地系の高塚古墳には,古墳の諸属性において共通性と差異性が認められる。これまで両者の関係は排他的もしくは対立的と把握される場合が多かったが,いずれの造営集団も,様々な交通路を利用した「地域ネットワーク」に参画し,倭や百済からの新来の墓制を受容していたという点において,併存的と評価すべきである。したがって,前方後円墳か在地系の高塚古墳かという違いは,諸地域集団の立場からみれば,新来の墓制に対する主体的な取捨選択の結果,ひいては百済中央や倭系渡来人集団との関わり合い方の違いの結果と評価できる。このような意味合いにおいて,その被葬者は基本的には百済や倭と緊密な関係を有した栄山江流域の諸地域集団の首長層と考えられる。ただし,倭や百済との活発な交渉,そこから渡来した集団の一部が定着した可能性も考慮すれば,その首長層に百済,倭に出自を有する人々が含まれていた可能性もまた,考慮しておく必要はある。