著者
山田 幸一 黒田 龍二
出版者
一般社団法人日本建築学会
雑誌
日本建築学会近畿支部研究報告集. 計画系 (ISSN:13456652)
巻号頁・発行日
no.20, pp.393-396, 1980-06-01

当社は滋賀県野州郡野州町三上に鎮座し、湖東の名山三上山を神体山と仰ぐ古社である。古記録の類は戦国の争乱で散逸したとされ、中世以前の来歴は詳かでないが、社構としては、本殿〔建武4年(1337)、〓東礎石銘〕、拝殿〔様式上平安時代とされる〕、桜門〔「かうあん三年きのとみのとし」、上層斗東墨書〕の3棟及びその他摂末社があり、中世以前の遺構をまとまって残す貴重な例である。この地方は有史以前早くから開け、殊に社地と指呼の間にある小篠原は銅鐸の出土地として著名である。『古事記』中巻開花天皇の条に、「近淡海之御上祝以伊都玖天之御影之神之女」とあり、御上氏の古さがうかがえる。続いて『日本霊異記』下巻第廿四に、宝亀年中(770〜780)既に社とそれに附随して堂の有ったことが記されている。社伝では、養老2年(718)現社地に本宮を造営したとするが、『源平盛衰記』巻四十五にも同趣旨の記事が見え、これは相当に古い伝承であることがわかる。『霊異記』の記述は、社の位置がはっきりしないけれども、社伝を否定する積極的な根拠はないので、奈良時代には現社地に何らかの神祭施設があったとしてよいであろう。降って平安時代には、月次新嘗に与る式内名神大社に列した。現在残るものでは先ず現拝殿が造られ、遅くとも南北朝初期には今の社構えが整う。中世、法華経三十番神の1つとされ、末期、社地東寄りに西面して神宮寺が建てられたが、明治初期に破却されたらしい。御上神社本殿は、形式上入母屋造本殿であり、その中でも最古の遺構である。当社独自の特異性についても、一般には所謂入母屋造本殿の成立に関しても、従来しばしば注目されてきたが、いまだに不明確な点が多い。これらは、神社建築そのものの濫觴にもかかわる大きな課題であり、ここでは特に触れない。本稿は、現本殿より古い時代の当社本殿形式を復原的に考察することによって、上のより大きな課題の基礎を固めようとするものである。つまり、現拝殿は方3間吹き放しであるが、その柱には板壁の取付痕と思われる溝掘りが残り、もとは本殿であったと伝えられていて、諸先学も一応この伝承を認めておられる。そうすると、当社の中心的本殿が2棟同時に存在したとは考えにくいので、先ず現拝殿の前身建物としての旧本殿があり、現本殿が建立されるに及んで、旧本殿は板壁を取りはらわれて、現拝殿となった、と考えられるだろう。拝殿前身建物の復原的考察を通じて、上の伝承を吟味するとともに、それが旧本殿と考えられるならば、現本殿との比較によって、当社本殿形式の特異性を浮び上がらせてみたいと思う。
著者
黒田 龍二
出版者
神戸大学
雑誌
挑戦的萌芽研究
巻号頁・発行日
2008

本研究では、社会・風俗史的な要素を多分に含む、人物彫刻を中心に調査、研究を行っている。本年度の主要な調査としては、日本で作られた中国神仙彫刻の淵源と推定される中国古建築の実地調査を行った。調査地は中国で最も古い木造建築物が残っている山西省で、8世紀の南禅寺大殿にはじり、12世紀頃までの比較的古い建築物を踏査した。これらの古い建築物においては、建築彫刻は植物、動物にとどまり、のちの状況からすると未発達で、人物彫刻は見られなかった。このことから、人物彫刻の発生は、中国においても13世紀以降になると推定される。もた、比較的新しい伝統的建築物も何棟か見たが、山西省では人物彫刻は少ないと推定される。文献資料では中国南東部の古建築に人物彫刻が多くみられ、地域的には南東部で発生しているものと推定される。しかし、日本で見るような単独形態のものはもだ発見していない。17世紀に日本で建てられた中国建築である長崎の崇福寺の建築でも、建築彫刻は精緻であるが、それほど多くはなく、人物彫刻も無い。明治に入って建てられた興福寺大雄宝殿では豊富な彫刻がみられ、人物彫刻もある。このようなことから、中国建築に関してはまったく不十分な調査であるが、先年度に調査した16世紀の土佐神社に見られるような神仙彫刻は日本で独自に考案された可能性があるのではないだろうか。以上のような見通しを得ることができたので、今後、日本の桃山建築にみられる爆発的な彫刻の発生の要因が、中国であるのか、日本であるのかをその主題や使用部位をみながら考究する視座を得ることができた。社会・風俗史的な背景を明らかにすることは困難であったが、人物彫刻の扱いは中国と日本では異なる部分があると推定され、その要因がどのようなものであるのを今後の課題とする。
著者
黒田 龍二
出版者
神戸大学
雑誌
萌芽研究
巻号頁・発行日
2005

主要な調査は厳島神社及び宮島の門前町の調査とし、比較対象として愛媛県大三島の大山祇神社とその周辺を調査した。近世においては厳島神社周辺には門前町が発達し、非常に栄えていた。その様子は、いくつかの厳島図屏風によって具体的に知ることができる。厳島図屏風の検討を通じて、建築的な描写から信頼性が高いのは、松本山雪筆の厳島図屏風(東京国立博物館蔵)で、17世紀の作である。町は神社の東側に発達し、町屋ほ平入、板葺でウダツをもつ町屋形式である。厳島においては社殿、町の構成、寺院、社家の居住地と屋敷がいずれも江戸時代の形態をよく残し、町の地割に関しても中世末期の地割が残る可能性が高い。一方、大三島は中世から三島水軍の拠点として栄え、門前町も形成されている。しかし、中心社殿は中世の物が残っているが、その他は厳島のように江戸時代以前の景観を残していない。まず町並みは近代以降の建物がほとんどである。社家、社僧の居住地は伝承があるのみで、実体としてはなくなっている。この差異の生じた原因としては、江戸時代に厳島は大三島よりも庶民の観光の地として発達したことが大きく関係していると考えられる。今後は、このような庶民信仰の観光地として発達する要因は神社の性格と関係があるのか。大三島の社僧と厳島の神官、社僧は異なる性格のものなのか。厳島神社と大山祇神社の本殿形態は大きく異なるが、その原因は何か。厳島神社の建築史的研究は多いが、大山祇神社の研究はほとんど行われておらず、このような地方における大型本殿の研究を、社会のあり方などと関連させて深化させる必要があることが分かった。