著者
川平 成雄 Kabira Nario
出版者
琉球大学法文学部
雑誌
琉球大学経済研究 (ISSN:0557580X)
巻号頁・発行日
no.80, pp.55-80, 2010-09

憲法第一条の象徴天皇、憲法第九条の戦争放棄、この見返りが沖縄の米軍基地化であった。このことを深く考慮することなく、憲法改正、とくに憲法第九条の改正を唱えるのは、憲法制定前、制定時のアジアを取り巻く国際情勢を無視した論理といわなければならない。冷戦の開始は、アメリカ本国政府に軍事戦略の転換を迫るものであった。これまで極東戦略の中心は中国に置かれていたが、中国の内部革命によってそれが覆り、軸の中心を沖縄に置く、基地建設の本格化がはじまる。このことを端的に語るのが、米軍の"銃剣とブルドーザー"による住民の土地の強制的接収であった。土地を奪われた住民の苦闘は今なお続いており、ここに沖縄の悲劇が生まれる。冷戦の終焉は、アメリカ本国政府に極東政策の見直しを迫るものであったが、依然として、広大な米軍基地は沖縄に居座り続けており、数々の事件・事故を引き起こしている。この最たるものが、1995年9月4日に起きた米兵による少女暴行事件であった。沖縄県民の怒りは爆発し、10月21日には沖縄県民総決起大会が8万5000人を集めて開催された。8万5000人という規模は、沖縄返還後、最大である。高校生代表の「基地がある故の苦悩から、私たちを解放してほしい。今の沖縄はだれのものでもなく、沖縄の人たちのものだから」との訴えを、日米両政府首脳は、常に、肝に銘じておくべきである。2009年2月17日、日米両政府は嘉手納基地以南の返還、普天間基地の移設を合意するが、その見返りに辺野古沖での最新設備を備えた新たな基地建設を要求する。これは沖縄県民を愚弄する政策行為そのもので許し難い。いつまで沖縄県民は、基地の重圧に耐えなければならないのか。「戦後」65年というが、日常茶飯事的といってもいいほど不発弾爆発事故が起こり、この度ごとに沖縄の「おじい」・「おばぁ」たちの頭には、沖縄戦の恐怖が蘇り、錯乱状態に陥る。沖縄の「おじい」・「おばぁ」たちにとっては、沖縄戦が続いているのである。このことを忘れてはならない。70年から80年はかかるとされる不発弾処理、未収集の遺骨、日本にある米軍基地の74.3パーセントの存在、この中のひとつでもある限り、沖縄に「戦後」はない。
著者
川平 成雄 Kabira Nario
出版者
琉球大学法文学部
雑誌
琉球大学経済研究 (ISSN:0557580X)
巻号頁・発行日
no.76, pp.1-25, 2008-09

沖縄戦は、"鉄の嵐"と"血の嵐"が吹き荒れた、戦史上、類を見ない、戦争であった。戦場を彷徨い、壕の中から生きながらえて収容された住民は、明日への目標を失い虚脱と放心の中にいるものもおれば、飢餓線上の悲惨な避難生活から解放されて、明るい太陽の下で、自由に手足をのばせる喜びを実感するものもいた。収容された人たちの中には、親を失い、兄弟姉妹を失い、親戚を失い、天涯孤独となった多くの孤児もいた。ひとり戦火の中を生き延びて収容されたものの、飢えと渇きによる栄養失調で幼い命を落とす孤児、親のぬくもりを求めて泣き続ける孤児、恐怖に震えて明るいところへ出てこようとしない孤児、彼らがいったい何をしたというのか。沖縄戦の只中にあっても、生き残った教師たちは子供たちの教育に正面から取り組む。これが青空教室であり、ガリ版刷教科書であった。子供たちにとって多くの仲間と一緒に歌い、学び、遊べるのは大きな喜びであった。子供たちの喜びは、教師たちにとっても喜びであった。米軍政府は、収容所内で新聞を発行させるが、その意図するところは日本の敗戦が必至であることを報せると同時に、住民の身心を安定させ、収容所をスムーズに統括することにあった。戦争で打ちひしがれていた人たちを救ったのは、三味線と踊りの「力」であった。「砲弾の降ってこない南島の夜空に吸われていく三味の音」と踊りは、「枯れ枯れの大地に浸みとおる水のように、飢えた心の奥深くまで浸み込んでくる豊かなもの」であった。沖縄の三味線と踊りには、沖縄の人たちを絶望の淵から生き返らせる「力」が秘められているのである。そして鉄と血の嵐が吹きまくった沖縄戦の終結後、人びとの復興への灯火となったのが、奇跡的に焼け残った壺屋の窯から立ち昇る煙であり、廃嘘と化した首里から奇跡的に発見された黒麹菌による泡盛の製造所から立ち昇る煙であった。壷屋から立ちのぼる煙、首里から立ちのぼる煙は、復興に立ち向かう沖縄の人たちを勇気づける煙でもあった。
著者
川平 成雄 Kabira Nario
出版者
琉球大学法文学部
雑誌
琉球大学経済研究 (ISSN:0557580X)
巻号頁・発行日
no.42, pp.p87-103, 1991-09
著者
川平 成雄 Kabira Nario
出版者
琉球大学法文学部
雑誌
琉球大学経済研究 (ISSN:0557580X)
巻号頁・発行日
no.75, pp.107-128, 2008-03

1945年4月1日、米軍は、沖縄本島中部西海岸に上陸する。米軍の沖縄本島上陸は、沖縄戦の本格的な開始を意味し、同時に米軍政府による沖縄の占領統治の開始をも意味した。沖縄の住民すべてを巻き込んだ沖縄戦は、戦史上、類を見ない、極限の中の極限における戦争であった。壕に避難している赤ちゃんが母親のお乳が出ないのでよく泣く、泣き声が漏れて米軍に知られるのを恐れた他の人達から「口を塞いで死なしなさい。みんなのためだ」といわれ、また日本兵が「注射して上げようね、おとなしくなる注射だ」といって殺す。人が人としての感情を失うのが極限である。 米軍は上陸と同時に、強制による住民の収容、強制による住民の労働力を確保して、日本軍が"作戦的に"放置した飛行場の整備、新たな基地建設を推し進め、この対価として食糧・衣類をはじめとする生活物資の無償配給を続ける。「軍作業」・無償配給は、沖縄の住民にとって生命の綱であった。 このような状況の中、米軍政府は、沖縄における占領と統治、沖縄住民による"ある程度の自治"を認める。その端緒が45年8月15日の「仮沖縄人諮詢会」の設置であった。米軍政府は、「沖縄に対する軍政府の方針」を立てるが、その主要内容はつぎのとおりである。「沖縄の住民が漸次生活の向上と自己の問題に対する自由の回復を期待し得る安定した制度の設立は諸君が新に委任された任務を能く遂行することに係っている。米軍政府は引続き指導と物質的援助を与える。然し責任と管理は漸次沖縄の住民に移譲されなければならない」。そして8月20日に沖縄諮詢会が設置される。その24日後の9月13日には、米軍政府と沖縄諮詢会は組織的な地方行政を創設する必要から「地方行政緊急措置要綱」を公布、この第5条でうたわれたのが「年令二十五才以上ノ住民ハ選挙権及被選挙権ヲ有ス」という文言である。これにより沖縄の女性に参政権が与えられたのである。9月20日の住民収容12地区における市議会議員選挙、9月25日の市長選挙において、沖縄の女性は、日本政治史上、はじめて、参政権を行使したのであった。
著者
川平 成雄 Kabira Nario
出版者
琉球大学法文学部
雑誌
琉球大学経済研究 (ISSN:0557580X)
巻号頁・発行日
no.74, pp.1-21, 2007-09