著者
長野 俊一 NAGANO Shunichi
出版者
岩手大学人文社会科学部
雑誌
人間・文化・社会
巻号頁・発行日
pp.311-328, 1997-03-28

歴史の大きな変化がトルストイの領地ヤースナヤ・ポリャーナ周辺にも忍び寄っていた。今や,父祖伝来の土地をモスクワ-クールスク鉄道が横切っている。「そこからほ,ほとんど絶え間なしに,汽笛や車輪の騒音,石炭の悪臭を放つ煙が私のところまでやってくる。百七十年前,そこにはキエフ街道がたった一本あったきりで,それも敷設されたものではなく,馬車に乗り慣らされた道であった・・・・・・」1)。百七十年前(ピョ- トル大帝の時代)から急激な西欧化を推し進めてきたロシア社会の近代化のスピードをトルストイは憎む。鉄道は皮肉にも都市と農村の分断化を促進し,農村を荒廃させ,大地を揺るがせながら,文明の果実をロシアに搬送し,人びとの私的な生活領域にまで侵入してくる。家父長制が崩壊する兆しを見せていた。いわゆる「女性問題」жeнский вопрос が声高に議論され,J.S.ミルの『女性の隷属』がロシア語訳で出版されると,瞬く間に版を重ねた。トルストイもまた,ピョートルの時代に題材を取った歴史小説を中断し,「現代の私的な生活からなる長編小説」を構想して「家庭の思想」2)を描くことになる。鉄道は混沌とした生の結び目のシンボルだ。B.シクロフスキイによれば,「トルストイにとって鉄道とは,生活の中へ侵入して,潜んでいた情欲を解き放つものの徴候である」3)トルストイはやがて,未来の小説のヒロインと同名の一女性が情夫への嫉妬に悩んだ末,モスクワ=クールスク線の貨物列車の車輪の下に身を投げ,その轢死体が解剖される現場に立ち会うことになる。一つのモチーフが偶然にも整った。アソナ・アルカージエヴナ・カレーニナという恐らくは現代女性にとっても魅力的な,時代の誇りにもなり得た女性の悲劇のシナリオは,プーシキンが未完の小説『客たちは別荘に集まった・・・・・・』の中で, トルストイにその完成を引き継ぐべく準備してくれていたかのようである。「情熱で身を滅ぼす」4) ジナイーダ・ヴォ-リスカヤが半世紀のちにアンナと名を変えて現れるだろう。舞台装置も整った。では,アンナの悲劇はいかに描かれているのか, トルストイが愛したと言われる「家庭の思想」мыслъ семейная は小説においてどのように具象化されているのか,誰がアンナを殺したのか, トルストイは果してここでも札付きのミソジニストなのか-これらの問題群をテクストに沿って考えていくことにしよう。
著者
長野 俊一 NAGANO Shunichi
出版者
岩手大学人文社会科学部
雑誌
思想と文化
巻号頁・発行日
pp.403-416, 1986-02-05

エヌ・ゲー・チェルヌィシェーフスキイの長編小説『何をなすべきか』第3章29節は,「特別な人間」<Ocoбeнный челoвeк>という独自の表題を持つ。それは恋愛小説もしくは家庭小説仕立ての物語的展開(「開かれた筋」1))を中断するように嵌め込まれたひとつの挿話である。挿話あるいは挿話的人物は,『死せる魂』のコペイキン大尉の物語や『戦争と平和』のプラトン・カラターエフの例を持ち出すまでもなく,その属性の一部である偶発性・意外性によってしばしば異彩を放ち,読者の注意を惹きつける。「特別な人間」ラフメートフの挿話も例外ではない。さらに加えて,この場合,第29節とそれに続く第30・31節は,作者からの内報を担った「イソップ的筋」(革命的蜂起のアピール)の中枢を占め,小説の構造上不可欠の体系をなしている。これらの数節において,政治的暗示のかずかずを受けとめ,寓喩を解読し,ラフメートフその人にアピールの仲介者,革命的思想の具象化を見出すのはそれほどむずかしいことではない。実際,われわれの先人たちは,ピーサレフもプレハーノフもルナチャールスキイもレーニンも,みなそのように読んできたのだし,作品の注解者たちはこうした読み方の歴史的裏づけをとることに専心してきたのである2)。だが考えてみれば, どうやらこのような読みを可能にしているのは,作者の伝記的事実の知識でも,主人公のプロトタイプを特定することでもなく-だからといって私はそうした基本的作業の必要性を否定しているのではない-むしろ,作品の構造それ自体であるらしい。つまり,テキスト外的・言語外的事実,いわゆるレアリアrealiaの単なる寄せ集めではなく,挿話の言語芸術としての特質,なかんずくイメジャリー(イメージの集合体)構成のあり方とそれを支えているチェルヌィシェーフスキイのレトリックの独自性なのである。「特別な人間」のイメージの造形,彫琢に際しての作者の砕心ぶりは,「文学記念碑シリーズ」版『何をなすべきか』(1975年 3)) に収録されているテキスト・草稿・浄書原稿の断片のそれぞれを比較対照することによって明らかになるだろうが,ここでは本文批評そのものを取り上げようというのではない。個々のイメージとその集合体イメジャリーの構成原理が,挿話の構造内部でどのように機能しているかを探ってゆく過程で,さまざまのレヴェルの「暗示」をいくらかでも明示化することがこの小論のねらいである。本論に入るまえに,必ずしも統一され固定化しているとは言い難い「イメージ」なる用語の,本稿での用語法について一言しておきたい。ここでいうイメージとは,心理学でいう心象,美学・文芸学でいう形象の狭義に用いられるのではなく,比喩や象徴の転義を含めた,場合によってはフィギュアfigureをも含めた広義の概念として用いられるものである。それは当然,「暗号記法」<тaйнoпиъ>またはいわゆる「イソップの言語」<эзoпoвязык>をも包摂することになるだろう。