著者
Sippel Patricia
出版者
東洋英和女学院大学
雑誌
東洋英和大学院紀要 (ISSN:13497715)
巻号頁・発行日
vol.3, pp.23-41, 2007-03-15

1909年(明治42年)夏、秋田県内の3新聞社が、東京などの新聞雑誌記者十数名を秋田県に招待した。目的は、秋田県の経済的・文化的な状況を実際に見て、読者に伝えてもらう機会を提供することであった。一行のうち新渡戸稲造、中野正剛、永田新之允など15名が約束通り体験記を記し、これは同年『知られたる秋田』として刊行された。この秋田観光記者団はいくつかの観点から興味深い。第一、全国的に傑出した記者らの旅行記が即座にアピールされた点である。第二、秋田県の近代経済・文化の発展のつぶさな観察にある。第三に最も興味深いのは、1909年の観光は、近代日本における中心(中央政権・主要都市)と地方の関係についての問題を提起するという点である。明治時代の秋田を含め東北地方として知られるようになった6県は、全国的にあまり認識も理解もされていなかった。中央政府や専門家らは東北地方の経済成長が遅いことを懸念し、いわゆる「東北問題」について論じた。東北地方内の識者は自立と繁栄をもたらす発展モデルを見出して「後進」のイメージを払拭しようと必死になった。本稿は、1909年の秋田観光とは、秋田県の指導者らが「東北問題」の根強い認識を克服するために講じた試みであったとを論ずる。彼らは「問題」ある地方の一部としての秋田に対するネガティブな認識を払拭し、豊かな自然と目覚ましい産業発展というポジティブな認識に変えようとした。世界中の経済先進国で地方の生き残りが議論されている今日、1909年の秋田観光は、地方が活力を持つことは当然でも簡単でもなく、地方の内外における多大な努力の成果であったことを語っている。
著者
Sippel Patricia
出版者
東洋英和女学院大学
雑誌
東洋英和大学院紀要 (ISSN:13497715)
巻号頁・発行日
vol.7, pp.1-20, 2011-03-15

本稿はカナダ・メソジスト教会婦人伝道会社に派遣され、東洋英和女学校の初期を形成した三人の女性伝道者たちの異文化交流に焦点を当てる。創立者であるマーサー・J・カートメル(1845-1945)の滞在期間は病気により短いものとなった。イライザ・スペンサー・ラージ(1855-1933)は、校舎において目の前で夫を殺害され、後には日本におけるカナダ・メソジスト伝道運動を脅かすほどの闘いに挑むこととなる。そしてアグネス・ウィントミュート・コーツ(1864-1945)は、当初伝道のために精力的な活動をするも、来る戦時期には長きにわたる疎外と孤独な死が彼女を待ち受けていた。書簡、報告書、議事録を紐解いていくことで、日本という生活環境そして布教の地でカナダ人伝道者たちが経験した国際交流の複雑さを素描する。