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Yahoo!知恵袋 (2 users, 16 posts)
例えば『藩制一覧』には各藩が明治3年に上申した実高が記載しており、これによると名古屋藩の実高は85万3215石となっています。
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1444759/159(156コマ目に記載あり)
ただし、これには名古屋藩附家老である成瀬家(犬山藩でカウント)・竹腰家(今尾藩でカウント)の知行が含まれていませんので、これらの実高がそれぞれ4万2 ...
>栃木県の都賀郡辺りから群馬県の芳賀町
明治22年の大合併で成立した群馬県南勢多郡芳賀村(昭和の大合併で前橋市に吸収)というのがありますが「芳賀町」となったことはありません。栃木県芳賀郡芳賀町の間違いではないでしょうか?というのは幕末の吹上藩の所領に下野国芳賀郡芳志戸村・打越新田など、現在の栃木県芳賀郡芳賀町の領域となっている所領が含まれているからです。
>吹上の漸さ事件の家老の姓名
国 ...
>ほぼ筑前國一円を支配した黒田氏による福岡藩の石高は47万3,000石との事ですが、
時代によって石高が違いますが、まず幕府が黒田家に与えたのは旧小早川領30万石余で、黒田領となった後の高直しにより慶長10年(1605年)に石高52万2416石余が表高として認められ、やがて1664年の寛文印知の時に表高43万3100石が正式な石高となります。この石高は分知した支藩である東蓮寺藩4万石と秋月藩4万 ...
『藩制一覧』によると、明治3年頃の二本松藩の士卒族は合計1045人、女子供を含めて4290人
士族 489戸 人口 2527人 (内 男1146人、女1381人)
卒 556戸 人口 1763人 (内 男878人、女885人)
士卒族合計 1045戸 人口 4290人 (内 男2024人、女 2266人)
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/144475 ...
まず「現高」ではなくて「現石」と称するべきです。「高」は土地の評価額であり、実際の藩としての税収が「現石」です。
>明治の大名華族の爵位を決める根拠になったらしい「現高」が詳しく分かるサイトって無いでしょうか?
実際に明治政府で採用された現石の数字は『明治史要』にまとまっています。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/773544/14
また ...
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1021058/73
上の「秩禄処分顛末略」によると、旧名古屋藩(尾張藩)では明治2年旧暦11月に士族の禄制を改革しておりますが、別に一律50俵とはなっておりません。禄高3000石以上の者は10分の1、3000石以下の者は295俵を以て最上の禄とする、ということが決まり、詳しい換算表が上の本に載っております。
当時世禄高 ...
「藩制一覧」によると、加賀金沢藩の表高102万5020石2斗8升2合に対し、幕末の実高は135万3352石8斗7升1合1才とあり、藩全体実際の税収である幕末の収納高(現石、通常は1864年~1868年の5ヶ年平均税収)は、以下の通りです。
正租 米63万3134石8斗3升7勺2才、銭7万5634貫777文4歩
雑税 金34両3歩永37文5歩 銭25万8590貫527文4歩
http:// ...
少なくとも富山県の明治~大正の人口統計を見る限り、さほど嘘ではないと思います。
大正7年(1918年)12月31日の統計によると、富山県の本籍人口・族籍別人口は
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/966032/137
896,315人 (男457,029人、女439,286人) 合計
13,103人 (男6,553人、女6,550人) 士族
883 ...
1693年の「元禄六年十一月 宗門総人数目録」「元禄六年十一月 河原之者諸修行者乞食宗門改人数目録」(上杉文書収録)によると:
3万1145人 (男1万7936人、女1万3209人) 諸奉公人・又者 共に
1万2078人 (男6924人、女5154人) 御城下町人
8万7543人 (男5万2444人、女3万5099人) 弐百弐拾六ヶ村
1423人 出家・修験・座頭 (出家875人、修験34 ...
松前藩は、石高は無高の扱いでも、寛文印知の頃から「万石以上」の格として扱われていました。一方の対馬藩は慶長の頃は1万1800石の国持大名(対馬自体は無高扱いでも慶長10年(1605年)より九州本土に1万1800石の飛び地を所領)、元禄の頃より「十万石格」として扱われていますので、立場とては対馬藩の方が上です。さらに18世紀末にはクナシリ・メナシの戦いなどアイヌ支配への失政の責を幕府に問われ、北方か ...
私はそもそも日本史の専門家ではないので、質問内容に対して的確に答えられていないかも知れませんが、それを踏まえて以下の回答を読んでください。
幕府がホームレスや犯罪人を収容する施設として建築したものとしては、「人足寄場」が挙げられます。日本語の学術論文・本の検索サイトとしては、以下が便利です。
http://ge.nii.ac.jp/genii/jsp/index.jsp
例えば「人足 ...
自分で答えを書いていらしてると思いますが、
>明治時代に華族制度が敷かれた時、現米5万石以上の大名家には伯爵が叙爵されましたが、
これに尽きます。
(1) まず明治元年旧暦2月11日、各藩の表高でもって、大藩・中藩・小藩を定めました。
大藩:40万石以上
中藩:10万石以上40万石未満
小藩:1万石以上10万石未満
(2) しかしながら明治3年旧暦9月10日には、 ...
「下級武士」といわれてもかなり曖昧ですが、一般には藩主に一人で謁見(独礼御目見)できるかどうかが上級と下級の境目だと思います。問題はどこまでを武士と呼ぶかで、帯刀が2本か1歩か、陪臣や中間、小者、帯刀も許されないような武家奉公人を含むのかで、話が大分変ります。
文政11年(1828年)の熊本藩では、
4,052 士席以上
15,393 独礼以下帯刀以上
272 士席浪人格・子弟支配人
...
「石高」の定義もかなり曖昧ですが、あくまでも藩や幕府が把握していた「内高」ということで、幕末~明治維新期の数字で計算すると以下の通りです。なお一般に大名預所は天領ということになっていますが、ここでは各藩の石高に含めて計算しました。また家名の違う支藩や琉球などのケースについても、本藩の支配を受けているとみなして加算しました。仙台藩と宇和島藩、岡山藩と鳥取藩はほぼ対等の関係ですが、趣旨に従って加算して ...
少なくとも表沙汰に出来る収入に関する限り、その通りだと思います。
「藩」の現収納高(現高)でしたら、明治維新期に元治元年(1864年)より明治元年(1868年)までの5年間の税収を報告したものが複数あります。これらの藩が正しい数字を報告していたかどうかは別として、そこから20万石以上の税収を得ている藩をピックアップすると
63万7316石968466 金沢(加賀)藩
37万8527石75 ...
元禄7年(1694年)の萩藩の家中人口は、萩藩の総人口33万5657人中5万4295人(16%)。内、諸士は9883人(2.9%)、足軽・中間7394人(2.2%)、又家来(陪臣)3万7018人(11.0%)。
寛政4年(1797年)の萩藩の領内家中人口は、萩藩の領内総人口47万6505人中4万4340人(9.3%)。内、諸士は1万0813人(2.2%)、足軽・中間9752人(2.0%; 手 ...
明治3年前後の日本の総人口、岐阜県の人口が知りたい。
明治3年前後の日本の総人口、岐阜県の人口が知りたい。
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