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投稿一覧(最新100件)
幕末の荒廃というよりも、江戸時代後半の荒廃の影響が大きいです。
水戸藩は元禄の頃に表高の高直し(28万石→35万石)を行い、同時に実高の高直志も行い、結果として税金が過酷となりました。その結果農村が荒廃し、さらに北関東全般に浅間山の火山の影響を始めとする天明・天保の飢饉の影響を受けてしまいます。実際領民人口(町方寺社を除く)も享保の頃の31万8475人から天保5年の22万7232人に減ってお ...
奈良時代に作られた戸籍制度は平安時代には崩壊しますが、江戸時代には切支丹取締りのために導入された寺受制度を通じて、宗門人別改として復活します。その結果、徳川吉宗の時代のの命令によって享保6年(1721年)に日本の人口が集計され、2606万5422人という数字が得られました。ただしこれは武家人口等を除き、実際にはその1.2倍の約3100万人強という数字が推定人口として、歴史人口学者の速水融や鬼頭宏に ...
なんか別の質問と被りますが、こちらにも回答を書きます。
>長門国の萩城が居城なので長州藩が正しいんでしょうか?
概ねその通りとも言えますが、実際のところ今日書物などで使っている藩名というのは通称であり、結構いい加減な変遷の上に成り立ち、明治よりも後になって使われるようになったものです。
まず長門国萩に城を置いたことから、毛利家の歴代藩主は武家官位として「松平長門守」(または松平大 ...
>栃木県の都賀郡辺りから群馬県の芳賀町
明治22年の大合併で成立した群馬県南勢多郡芳賀村(昭和の大合併で前橋市に吸収)というのがありますが「芳賀町」となったことはありません。栃木県芳賀郡芳賀町の間違いではないでしょうか?というのは幕末の吹上藩の所領に下野国芳賀郡芳志戸村・打越新田など、現在の栃木県芳賀郡芳賀町の領域となっている所領が含まれているからです。
>吹上の漸さ事件の家老の姓名
国 ...
「一目でわかる江戸時代:地図・グラフ・図解でみる」
市川寛明編
小学館, 2004.5
https://ci.nii.ac.jp/ncid/BA66778456
https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000007340694-00
https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784096260678
https://ww ...
>ほぼ筑前國一円を支配した黒田氏による福岡藩の石高は47万3,000石との事ですが、
時代によって石高が違いますが、まず幕府が黒田家に与えたのは旧小早川領30万石余で、黒田領となった後の高直しにより慶長10年(1605年)に石高52万2416石余が表高として認められ、やがて1664年の寛文印知の時に表高43万3100石が正式な石高となります。この石高は分知した支藩である東蓮寺藩4万石と秋月藩4万 ...
>ほぼ筑前國一円を支配した黒田氏による福岡藩の石高は47万3,000石との事ですが、
時代によって石高が違いますが、まず幕府が黒田家に与えたのは旧小早川領30万石余で、黒田領となった後の高直しにより慶長10年(1605年)に石高52万2416石余が表高として認められ、やがて1664年の寛文印知の時に表高43万3100石が正式な石高となります。この石高は分知した支藩である東蓮寺藩4万石と秋月藩4万 ...
>ほぼ筑前國一円を支配した黒田氏による福岡藩の石高は47万3,000石との事ですが、
時代によって石高が違いますが、まず幕府が黒田家に与えたのは旧小早川領30万石余で、黒田領となった後の高直しにより慶長10年(1605年)に石高52万2416石余が表高として認められ、やがて1664年の寛文印知の時に表高43万3100石が正式な石高となります。この石高は分知した支藩である東蓮寺藩4万石と秋月藩4万 ...
>栃木県の那須塩原市って、戦国時代は那須氏が治めていたのですか?
宇都宮氏、佐竹氏、結城氏などと抗争状態で、戦国時代を通じてずっと那須氏の所領ということはないでしょう。ただ、那須氏は戦国時代、分裂しながらもずっと那須郡の大部分を治めていたようです。
まず応永23年(1416年)の上杉禅秀の乱で那須家は上の荘(上那須家)と下の荘(下那須家)とに分裂していました。そして応仁の乱の時代に関しては ...
>栃木県の那須塩原市って、戦国時代は那須氏が治めていたのですか?
宇都宮氏、佐竹氏、結城氏などと抗争状態で、戦国時代を通じてずっと那須氏の所領ということはないでしょう。ただ、那須氏は戦国時代、分裂しながらもずっと那須郡の大部分を治めていたようです。
まず応永23年(1416年)の上杉禅秀の乱で那須家は上の荘(上那須家)と下の荘(下那須家)とに分裂していました。そして応仁の乱の時代に関しては ...
弘前藩は初期には4万5000石、幕末には高直しで10万石の表高が認められていましたが、明治新政府に報告した弘前藩の内高(実高)は27万4482石で、総人口は28万8842人です(【明治史要』による)。これに対する税収は、1863年~1867年の五か年平均の年貢が
米14万0851石6斗7升
金9053両永楽銭2貫119文
であり、それなりに税収も良かったことになります。
https://d ...
統計の関係上、個々の島の人口まで示すことはできませんが、一応新知郡の得撫島と松輪島、得撫郡の得撫島、歯舞群島の志発島・多楽島・水晶島・勇留島・秋勇留島・春苅島・萌茂尻島の7島には居住があったようです。
国勢調査開始以前の、戸籍ベースの「現住人口」の調査結果は以下の通りです。
調査年月___占守島_新知島_得撫島_択捉島_国後島_色丹島_歯舞群島(村)
1898年12月31日_72_ ...
大藩・中藩・小藩の定義は明治政府によって一度修正されており、
(1) 慶応4年旧暦2月11日の法令での大藩・中藩・小藩の定義
大藩:40万石以上
中藩:10万石以上40万石未満
小藩:1万石以上10万石未満
(2) 明治3年旧暦9月10日の法令での大藩・中藩・小藩の定義
大藩:現石15万石以上
中藩:現石5万石以上、現石15万石未満
小藩:現石5万石未満
...
大藩・中藩・小藩の定義は明治政府によって一度修正されており、
(1) 慶応4年旧暦2月11日の法令での大藩・中藩・小藩の定義
大藩:40万石以上
中藩:10万石以上40万石未満
小藩:1万石以上10万石未満
(2) 明治3年旧暦9月10日の法令での大藩・中藩・小藩の定義
大藩:現石15万石以上
中藩:現石5万石以上、現石15万石未満
小藩:現石5万石未満
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大藩・中藩・小藩の定義は明治政府によって一度修正されており、
(1) 慶応4年旧暦2月11日の法令での大藩・中藩・小藩の定義
大藩:40万石以上
中藩:10万石以上40万石未満
小藩:1万石以上10万石未満
(2) 明治3年旧暦9月10日の法令での大藩・中藩・小藩の定義
大藩:現石15万石以上
中藩:現石5万石以上、現石15万石未満
小藩:現石5万石未満
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まず没収高として、関ヶ原と大坂の陣の影響しか考慮していませんが、藤野保『幕藩体制史の研究』から大名の純没収高(改易後の給与高を除いたもの)の状況を引用すると
632万4149石 関ヶ原で除封・現封された大名88名
359万4640石(外様252万7640石+親藩譜代106万7000石) 家康の時代(慶長6年~元和元年)に改易された大名41名
360万5420石(外様227万1600石+親 ...
『藩制一覧』によると、明治3年頃の二本松藩の士卒族は合計1045人、女子供を含めて4290人
士族 489戸 人口 2527人 (内 男1146人、女1381人)
卒 556戸 人口 1763人 (内 男878人、女885人)
士卒族合計 1045戸 人口 4290人 (内 男2024人、女 2266人)
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/144475 ...
『藩制一覧』によると、明治3年頃の二本松藩の士卒族は合計1045人、女子供を含めて4290人
士族 489戸 人口 2527人 (内 男1146人、女1381人)
卒 556戸 人口 1763人 (内 男878人、女885人)
士卒族合計 1045戸 人口 4290人 (内 男2024人、女 2266人)
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/144475 ...
まず、仙台藩の人口史料としては、仙台藩の総人口を記す文書がいくつか残っていますが、岩山家文書「松平陸奥守領内左之通書上」によると享保2年(1717年)の藩の総人口と地域別人口は以下の通りで、残っている史料として仙台藩の総人口が判明している中では、これが江戸時代で最大のものです。
86万9846人 (男49万8846人、女37万1000人) 惣人高
81万9162人 (男47万0956人、女 ...
鯖江藩の石高は幕末には4万石ですが、『藩制一覧』によると、明治政府に報告された鯖江藩の士卒人員の内訳は以下の通りです。
士族 311軒 人員 1377人 (男621人、女756人)
卒 303軒 人員 1289人 (男667人、女622人)
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1444774/54
『明治政覧』によると鯖江藩の士卒人員は608人
...
鯖江藩の石高は幕末には4万石ですが、『藩制一覧』によると、明治政府に報告された鯖江藩の士卒人員の内訳は以下の通りです。
士族 311軒 人員 1377人 (男621人、女756人)
卒 303軒 人員 1289人 (男667人、女622人)
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1444774/54
『明治政覧』によると鯖江藩の士卒人員は608人
...
『旧高旧領取調帳』の記載が中途半端なせいで、幕末の段階で宇都宮藩御預所が存在していたかのように誤解されそうですが、詳しい経緯の方は『大阪府全志』の方に記載されています。
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/965798/243
上の書によると「此の宇都宮藩預所は旧阿幕府麾下戸田鋠之丞の采地にして、去る明治元年十月十九日同藩預となりしものなり。」
つまり ...
本来は藩より知行を与えられた給人は自分たちの領地(給人地)を直接支配し、藩主の直轄領である蔵入地は藩主の代官が支配することになっていましたが、加賀藩の場合は江戸初期の慶長年間の段階で代官が給人地を支配する体制を築いており、高録者の知行は加越能三ヶ国に領地を分散支給していました。特に慶長16年(1611年)に5万石の知行を与えて加賀藩最大の家臣とした本多政重に対しては、わざわざ本多家の知行地の租税に ...
本来は藩より知行を与えられた給人は自分たちの領地(給人地)を直接支配し、藩主の直轄領である蔵入地は藩主の代官が支配することになっていましたが、加賀藩の場合は江戸初期の慶長年間の段階で代官が給人地を支配する体制を築いており、高録者の知行は加越能三ヶ国に領地を分散支給していました。特に慶長16年(1611年)に5万石の知行を与えて加賀藩最大の家臣とした本多政重に対しては、わざわざ本多家の知行地の租税に ...
実際の税収が足りなかったからです。これは自己申告なので、別に明治政府が陰謀で減らしたわけではありません。
大藩・中藩・小藩の基準は、明治政府によって一回修正されています。
(1) 明治元年旧暦2月11日の法令での大藩・中藩・小藩の定義
大藩:40万石以上
中藩:10万石以上40万石未満
小藩:1万石以上10万石未満
(2) 明治3年旧暦9月10日の法令での大藩・中藩・ ...
実際の税収が足りなかったからです。これは自己申告なので、別に明治政府が陰謀で減らしたわけではありません。
大藩・中藩・小藩の基準は、明治政府によって一回修正されています。
(1) 明治元年旧暦2月11日の法令での大藩・中藩・小藩の定義
大藩:40万石以上
中藩:10万石以上40万石未満
小藩:1万石以上10万石未満
(2) 明治3年旧暦9月10日の法令での大藩・中藩・ ...
まず「現高」ではなくて「現石」と称するべきです。「高」は土地の評価額であり、実際の藩としての税収が「現石」です。
>明治の大名華族の爵位を決める根拠になったらしい「現高」が詳しく分かるサイトって無いでしょうか?
実際に明治政府で採用された現石の数字は『明治史要』にまとまっています。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/773544/14
また ...
まず「現高」ではなくて「現石」と称するべきです。「高」は土地の評価額であり、実際の藩としての税収が「現石」です。
>明治の大名華族の爵位を決める根拠になったらしい「現高」が詳しく分かるサイトって無いでしょうか?
実際に明治政府で採用された現石の数字は『明治史要』にまとまっています。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/773544/14
また ...
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1366941/3
上に実際の集計がまとまっていますが、その他「5738人」とは
地士 3380人 (讃岐高松藩の郷氏階級にのみ与えられた地域独自の階級で、後に士族に吸収)
樺太人員 2358人 (実際の調査年は明治6年で、明治5年分は明治6年分を流用)
の合計です。総人口には琉球藩16万6789人(こちらも明治 ...
理由は、幕府が把握していた村数と、実際に長州藩が把握していた村数とが違っていたからです。
天保5年(1834年)の年号の記載のある『天保郷帳』では、周防で村数152、高48万9428石6斗7升7合、長門で村数150、高40万4853石3斗3升3合、合計村数302、高89万4282石0斗1升となっています。
ところが明治2年(1869年)の『旧高旧領取調帳』では、周防で村数296、高54 ...
既にsagarasousiさんという方が詳細な回答をなされていて、自分も近い結論に達しましたが、微力ながら元文献に当たってみました。
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q11192656141
まず辻達也編『新稿一橋徳川家記』記載の深心院の没年月日は:
「享保六年(一七二一) 十月
七日 小五郎生母谷口氏歿 ...
既にsagarasousiさんという方が詳細な回答をなされていて、自分も近い結論に達しましたが、微力ながら元文献に当たってみました。
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q11192656141
まず辻達也編『新稿一橋徳川家記』記載の深心院の没年月日は:
「享保六年(一七二一) 十月
七日 小五郎生母谷口氏歿 ...
https://ja.wikipedia.org/wiki/近代以前の日本の人口統計#古文書に記載された人口
に一通り、古文書に記載された人口がまとめられています…が、そのほとんどは江戸時代以降に成立した文書に引用されているもので、元史料も本当にその通り記載されていたのか怪しいものばかりです。奈良時代の日本の人口について推計を出した澤田吾一によると、頻繁に言及される49や800万という数字は ...
>会津藩が版籍奉還まで存続していたら若松藩に改称していた可能性はあると思いますか?
仮に会津藩が版籍奉還まで存続してた場合は「若松藩」が正式な名称になったと思います。ただし藩名に関しては、いつの時点で何を持って正式の名称としたのか、非常に曖昧であり、「改称」には当たらないと思います。なぜなら藩主(藩知事)の居城・陣屋など、「藩庁」の所在地をもって「藩名」とする正式な通達が出されたのかはっき ...
>会津藩が版籍奉還まで存続していたら若松藩に改称していた可能性はあると思いますか?
仮に会津藩が版籍奉還まで存続してた場合は「若松藩」が正式な名称になったと思います。ただし藩名に関しては、いつの時点で何を持って正式の名称としたのか、非常に曖昧であり、「改称」には当たらないと思います。なぜなら藩主(藩知事)の居城・陣屋など、「藩庁」の所在地をもって「藩名」とする正式な通達が出されたのかはっき ...
>会津藩が版籍奉還まで存続していたら若松藩に改称していた可能性はあると思いますか?
仮に会津藩が版籍奉還まで存続してた場合は「若松藩」が正式な名称になったと思います。ただし藩名に関しては、いつの時点で何を持って正式の名称としたのか、非常に曖昧であり、「改称」には当たらないと思います。なぜなら藩主(藩知事)の居城・陣屋など、「藩庁」の所在地をもって「藩名」とする正式な通達が出されたのかはっき ...
大名の石高として一番引用されているのは藤野保『新訂 幕藩体制史の研究』(1975年出版)だと思いますが、それによると小早川秀秋の所領は慶長4年の時点で35万7450石、慶長7年10年の時点で51万石とされています。ただ本書の脚注によると
「(185) 日本の学界には信頼に値する「大名一覧」すら今日までなお存在するに至っていない。とくに「日本史料集成」所蔵の「大名一覧」は単に誤植とは思われない ...
大名の石高として一番引用されているのは藤野保『新訂 幕藩体制史の研究』(1975年出版)だと思いますが、それによると小早川秀秋の所領は慶長4年の時点で35万7450石、慶長7年10年の時点で51万石とされています。ただ本書の脚注によると
「(185) 日本の学界には信頼に値する「大名一覧」すら今日までなお存在するに至っていない。とくに「日本史料集成」所蔵の「大名一覧」は単に誤植とは思われない ...
>何故?尊皇派の有馬新七を、近衛の命を受けた薩摩藩主、
>国父である島津久光が殺す様に命じたのか?が理解できませんでした。
島津久光や朝廷の貴族の多くは公武合体派であるのに対し、有馬新七ら過激派は討幕派だからです。
ドラマでも描かれましたが、文久2年旧暦4月16日に島津久光は非公式に近衛邸を訪問し、近衛忠房・中山忠能・正親町三条実愛に対して、自分は斉彬の意志を継ぎ、具体的には近衛忠煕 ...
>何故?尊皇派の有馬新七を、近衛の命を受けた薩摩藩主、
>国父である島津久光が殺す様に命じたのか?が理解できませんでした。
島津久光や朝廷の貴族の多くは公武合体派であるのに対し、有馬新七ら過激派は討幕派だからです。
ドラマでも描かれましたが、文久2年旧暦4月16日に島津久光は非公式に近衛邸を訪問し、近衛忠房・中山忠能・正親町三条実愛に対して、自分は斉彬の意志を継ぎ、具体的には近衛忠煕 ...
過去の国勢調査人口は以下の統計局のサイトからダウンロードできるものもあります。
https://www.e-stat.go.jp/stat-search/files?page=1&toukei=00200521&result_page=1
ただし戦前の分に関しては国立国会図書館の方が閲覧し易いです。
例えば昭和15年分については
http://dl.ndl.go.jp/info:ndl ...
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1021058/73
上の「秩禄処分顛末略」によると、旧名古屋藩(尾張藩)では明治2年旧暦11月に士族の禄制を改革しておりますが、別に一律50俵とはなっておりません。禄高3000石以上の者は10分の1、3000石以下の者は295俵を以て最上の禄とする、ということが決まり、詳しい換算表が上の本に載っております。
当時世禄高 ...
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1021058/73
上の「秩禄処分顛末略」によると、旧名古屋藩(尾張藩)では明治2年旧暦11月に士族の禄制を改革しておりますが、別に一律50俵とはなっておりません。禄高3000石以上の者は10分の1、3000石以下の者は295俵を以て最上の禄とする、ということが決まり、詳しい換算表が上の本に載っております。
当時世禄高 ...
「藩制一覧」によると、加賀金沢藩の表高102万5020石2斗8升2合に対し、幕末の実高は135万3352石8斗7升1合1才とあり、藩全体実際の税収である幕末の収納高(現石、通常は1864年~1868年の5ヶ年平均税収)は、以下の通りです。
正租 米63万3134石8斗3升7勺2才、銭7万5634貫777文4歩
雑税 金34両3歩永37文5歩 銭25万8590貫527文4歩
http:// ...
「藩制一覧」によると、加賀金沢藩の表高102万5020石2斗8升2合に対し、幕末の実高は135万3352石8斗7升1合1才とあり、藩全体実際の税収である幕末の収納高(現石、通常は1864年~1868年の5ヶ年平均税収)は、以下の通りです。
正租 米63万3134石8斗3升7勺2才、銭7万5634貫777文4歩
雑税 金34両3歩永37文5歩 銭25万8590貫527文4歩
http:// ...
「筑前・豊後・長門」に限って言うのであれば、江戸時代初期の慶長郷帳・国絵図の時期からの郡別石高が総て判明しております。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A7%E5%9B%BD%E9%83%A1%E5%88%A5%E7%9F%B3%E9%AB%98%E3%81%AE%E5%A4%89%E9%81%B7
一方太閤検地の時代となると、筑前に関しては小早川 ...
太閤検地については様々な写本が残っておりますが、ある程度まとまった郡レベルでの村の石高の詳細が残っているものとしては、以下のものが知られています。
● 「筑前国田畠之高村々差出前之帳」
小早川秀秋の筑前の所領34万4261石6斗4升8合2勺で実施された検地で、村単位での田畠数・石高の詳細が記載されており、『福岡県史料 第1輯』に活字化されています。
http://dl.ndl.go.jp/i ...
太閤検地については様々な写本が残っておりますが、ある程度まとまった郡レベルでの村の石高の詳細が残っているものとしては、以下のものが知られています。
● 「筑前国田畠之高村々差出前之帳」
小早川秀秋の筑前の所領34万4261石6斗4升8合2勺で実施された検地で、村単位での田畠数・石高の詳細が記載されており、『福岡県史料 第1輯』に活字化されています。
http://dl.ndl.go.jp/i ...
「一服」という言葉は室町時代から使用例があり、当初はお茶を飲むことでしたが、江戸時代中頃には煙草を吸い、さらに休憩を取るという意味に使われております。
まずお茶の例としては、『東寺百合文書』の応永十年(1403年)の条に「南大門一服一銭請文」という記述があり、千利休の時代よりもはるか前の室町時代初期には、抹茶一服を一銭で売る商売が既に成立していたことが判ります。15世紀中頃に編纂された辞書で ...
秩禄処分が行われたのは明治9年以降ですが、その当時の日本の総人口は3400万人程度です。『維新以後帝國統計材料彙纂. 第2輯 (現住人口靜動態ニ關スル統計材料)』によると、明治9年1月1日の総現住人口3430万2068人(男1737万7356人、女1692万4712人)に対し、有業現住人口は2028万2937人(男1122万0506人、女906万2431人)であり、その内訳は以下の通りです。
...
秩禄処分が行われたのは明治9年以降ですが、その当時の日本の総人口は3400万人程度です。『維新以後帝國統計材料彙纂. 第2輯 (現住人口靜動態ニ關スル統計材料)』によると、明治9年1月1日の総現住人口3430万2068人(男1737万7356人、女1692万4712人)に対し、有業現住人口は2028万2937人(男1122万0506人、女906万2431人)であり、その内訳は以下の通りです。
...
「市制町村制」は明治21年法律第1号で定められ、法令全書に収録されていますが、以下の「市制町村制理由書」に書かれている内容が、市設置に関する唯一の法的根拠であると思われます。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/787973/33
「今此市制を施行せんとするものは、三府其他人口凡二万五千以上の市街地に在りとす。尤郡制制定の時に至て其要件を確定することある可しと ...
少なくとも富山県の明治~大正の人口統計を見る限り、さほど嘘ではないと思います。
大正7年(1918年)12月31日の統計によると、富山県の本籍人口・族籍別人口は
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/966032/137
896,315人 (男457,029人、女439,286人) 合計
13,103人 (男6,553人、女6,550人) 士族
883 ...
少なくとも富山県の明治~大正の人口統計を見る限り、さほど嘘ではないと思います。
大正7年(1918年)12月31日の統計によると、富山県の本籍人口・族籍別人口は
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/966032/137
896,315人 (男457,029人、女439,286人) 合計
13,103人 (男6,553人、女6,550人) 士族
883 ...
少なくとも富山県の明治~大正の人口統計を見る限り、さほど嘘ではないと思います。
大正7年(1918年)12月31日の統計によると、富山県の本籍人口・族籍別人口は
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/966032/137
896,315人 (男457,029人、女439,286人) 合計
13,103人 (男6,553人、女6,550人) 士族
883 ...
時山彌八編『舊長藩殉難者名録』(1918年)という本があり、安政元年から明治4年までの長州藩(本藩である山口藩(萩藩)と支藩である豊浦藩(長府藩)・清末藩・徳山藩・岩国藩)とその関連の殉難者の名前が列挙されています。それによると、
13人 安政の大獄(安政~文久)
32人 下関戦争(文久3年~元治元年)
3人 教法寺事件(文久3年)
19人 生野の変(文久3年)
8人 池田屋事件(元 ...
時山彌八編『舊長藩殉難者名録』(1918年)という本があり、安政元年から明治4年までの長州藩(本藩である山口藩(萩藩)と支藩である豊浦藩(長府藩)・清末藩・徳山藩・岩国藩)とその関連の殉難者の名前が列挙されています。それによると、
13人 安政の大獄(安政~文久)
32人 下関戦争(文久3年~元治元年)
3人 教法寺事件(文久3年)
19人 生野の変(文久3年)
8人 池田屋事件(元 ...
1693年の「元禄六年十一月 宗門総人数目録」「元禄六年十一月 河原之者諸修行者乞食宗門改人数目録」(上杉文書収録)によると:
3万1145人 (男1万7936人、女1万3209人) 諸奉公人・又者 共に
1万2078人 (男6924人、女5154人) 御城下町人
8万7543人 (男5万2444人、女3万5099人) 弐百弐拾六ヶ村
1423人 出家・修験・座頭 (出家875人、修験34 ...
1693年の「元禄六年十一月 宗門総人数目録」「元禄六年十一月 河原之者諸修行者乞食宗門改人数目録」(上杉文書収録)によると:
3万1145人 (男1万7936人、女1万3209人) 諸奉公人・又者 共に
1万2078人 (男6924人、女5154人) 御城下町人
8万7543人 (男5万2444人、女3万5099人) 弐百弐拾六ヶ村
1423人 出家・修験・座頭 (出家875人、修験34 ...
松前藩は、石高は無高の扱いでも、寛文印知の頃から「万石以上」の格として扱われていました。一方の対馬藩は慶長の頃は1万1800石の国持大名(対馬自体は無高扱いでも慶長10年(1605年)より九州本土に1万1800石の飛び地を所領)、元禄の頃より「十万石格」として扱われていますので、立場とては対馬藩の方が上です。さらに18世紀末にはクナシリ・メナシの戦いなどアイヌ支配への失政の責を幕府に問われ、北方か ...
まずこの時代の甲州は貫高制であって石高制ではありません。穴山梅雪が行った検地帳が伝わっており、以下に詳しい解説が載っております。
http://www.town.minobu.lg.jp/chosei/choushi/minobu/T03_C03_S06_4.htm
>妙法寺記享禄2年(1529)の段に、「此年の冬世中十分に吉…米二升五合、大原にては三升拾文サシに売買候」とあり、ここから米1石 ...
まずこの時代の甲州は貫高制であって石高制ではありません。穴山梅雪が行った検地帳が伝わっており、以下に詳しい解説が載っております。
http://www.town.minobu.lg.jp/chosei/choushi/minobu/T03_C03_S06_4.htm
>妙法寺記享禄2年(1529)の段に、「此年の冬世中十分に吉…米二升五合、大原にては三升拾文サシに売買候」とあり、ここから米1石 ...
一応自分が過去に明治15年の『大日本帝国統計年鑑』からまとめた解答がありますが:
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q10142648310
これのオリジナルと思われる明治14年調査の「七十三州面積概算」が東大の史料編纂所のサイトから画像データとして閲覧できます。
http://wwwap.hi.u-tokyo ...
>所口代官所が管理していたという情報と、加賀藩が「御預かり」という形で統治を代行していたという情報が二つありました。
貞享元年(1684年)から元禄2年(1689年)まで鹿島郡下村に、元禄2年(1689年)から享保7年(1722年)まで鹿島郡府中村に出張陣屋がおかれ、越前保田代官、越前西鯖江代官、出雲崎代官などが直接能登天領を支配していました。その後享保7年(1722年)から幕末の慶応3年(18 ...
明治維新後にどれくらい江戸の人口が減ったかを出すにあたって、まず明治初期の信頼できる東京の人口を調べてみましょう。明治2年旧暦4月(1869年2月)に行った「東京五十組」の戸数人口調査によると、家120,606軒、503,703人となっております。ただしこの調査は御朱引内の町屋敷が主な調査対象で、武家屋敷が含まれておりません。一方「東京府」の人口は明治3年旧暦閏10月(1870年11月)の調査では ...
明治維新後にどれくらい江戸の人口が減ったかを出すにあたって、まず明治初期の信頼できる東京の人口を調べてみましょう。明治2年旧暦4月(1869年2月)に行った「東京五十組」の戸数人口調査によると、家120,606軒、503,703人となっております。ただしこの調査は御朱引内の町屋敷が主な調査対象で、武家屋敷が含まれておりません。一方「東京府」の人口は明治3年旧暦閏10月(1870年11月)の調査では ...
多分以下の本にある程度まとまっているのではないでしょうか?
森下功編『熊本藩手永・惣庄屋一覧』(「熊本近代史史料」所収)[全34頁]
http://ci.nii.ac.jp/ncid/BN10939676
また細川家になって最初の人別改の詳細は以下にまとまっています。
東京大学史料編纂所編『肥後藩人畜改帳』全5巻(「大日本近世史料」所収)
http://ci.nii.ac.j ...
多分以下の本にある程度まとまっているのではないでしょうか?
森下功編『熊本藩手永・惣庄屋一覧』(「熊本近代史史料」所収)[全34頁]
http://ci.nii.ac.jp/ncid/BN10939676
また細川家になって最初の人別改の詳細は以下にまとまっています。
東京大学史料編纂所編『肥後藩人畜改帳』全5巻(「大日本近世史料」所収)
http://ci.nii.ac.j ...
様々な理由により、残念ながら、公的な出版物として戦前の樺太の市区町村別面積を記述しているものは存在しないと思われます。
一応樺太から出ている統計書、年鑑の類として、「樺太庁統計書」と「樺太要覧」がありますが、nacsis webcatを検索する限り、それぞれ昭和17年度、昭和16年度まで出版され、それ以降は出版されていないようです。「樺太要覧」は『戦前期「外地」図書館資料集 樺太編 第1巻』 ...
様々な理由により、残念ながら、公的な出版物として戦前の樺太の市区町村別面積を記述しているものは存在しないと思われます。
一応樺太から出ている統計書、年鑑の類として、「樺太庁統計書」と「樺太要覧」がありますが、nacsis webcatを検索する限り、それぞれ昭和17年度、昭和16年度まで出版され、それ以降は出版されていないようです。「樺太要覧」は『戦前期「外地」図書館資料集 樺太編 第1巻』 ...
①薩摩藩の領国経営に関する書籍で、必ずしも郷士の生活を取り扱ったものではありませんが、
秀村選三編『薩摩藩の基礎構造』(1970年)
http://ci.nii.ac.jp/ncid/BN02033800
秀村選三編『薩摩藩の構造と展開』(1976年)
http://ci.nii.ac.jp/ncid/BN01988706
大隅国高山郷の郷士に関する経済的な考察がなされています。
...
①薩摩藩の領国経営に関する書籍で、必ずしも郷士の生活を取り扱ったものではありませんが、
秀村選三編『薩摩藩の基礎構造』(1970年)
http://ci.nii.ac.jp/ncid/BN02033800
秀村選三編『薩摩藩の構造と展開』(1976年)
http://ci.nii.ac.jp/ncid/BN01988706
大隅国高山郷の郷士に関する経済的な考察がなされています。
...
①薩摩藩の領国経営に関する書籍で、必ずしも郷士の生活を取り扱ったものではありませんが、
秀村選三編『薩摩藩の基礎構造』(1970年)
http://ci.nii.ac.jp/ncid/BN02033800
秀村選三編『薩摩藩の構造と展開』(1976年)
http://ci.nii.ac.jp/ncid/BN01988706
大隅国高山郷の郷士に関する経済的な考察がなされています。
...
平安時代の『和名類聚抄』だと、美作国は英多・勝田・苫東・苫西・久米・大庭・真島の7郡しかないんですよね。
それが遅くとも13世紀末の鎌倉時代には編纂されていたと考えられる『拾芥抄』には、用野・苫南・苫北・吉野の4郡名が増えています。この内、吉野・苫南(西北条郡)・苫北郡(東北条郡)は英田・苫西(西西条郡)・苫東郡(東南条郡)を分割して設置されましたが、用野郡については他に史料がなく実態が不明 ...
軍用馬は嗜好によってかなり値段が変わったようで、なかなか単純な比較はできないようです。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/841937/5
上の秋田県の『明治二十八年 畜産事務報告書』によると、二歳以上の馬1万0693頭の販売総額が26万0190円71銭、よって馬1頭は平均24円33銭3厘。明治28年の名古屋米穀取引所での米価が平均8円90銭3厘 ...
軍用馬は嗜好によってかなり値段が変わったようで、なかなか単純な比較はできないようです。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/841937/5
上の秋田県の『明治二十八年 畜産事務報告書』によると、二歳以上の馬1万0693頭の販売総額が26万0190円71銭、よって馬1頭は平均24円33銭3厘。明治28年の名古屋米穀取引所での米価が平均8円90銭3厘 ...
「102万2千石余」は近江国内の飛び地が含まれておらず、加賀前田家の所領としては「102万5千石余」が正式な表高です。なお支藩の富山藩(表高10万石)、大聖寺藩(表高7万石)を含めると表高は119万5千石余となります。
慶長19年(1614年)に前田利長が死ぬと、前田利常に対して徳川家康は朱印状を発給しておりますが、その朱印状には石高が記されていません。その後、寛永11年(1634年)8月に ...
江戸時代の藩主の官位の呼称ですが、1664年の寛文朱印留によると、出羽久保田城主の佐竹義隆は「秋田侍従」または「佐竹修理大夫」と名乗り、陸奥盛岡城主の南部重直は「南部山城守」を名乗っています。南部の方は、南部利敬が国持大名として扱われることが決まったことにより、1808年に「南部侍従」から「盛岡侍従」と名乗りを変えておりますが、このことを指してしばしば「1808年に南部藩は盛岡藩に改名」と表現する ...
江戸時代の藩主の官位の呼称ですが、1664年の寛文朱印留によると、出羽久保田城主の佐竹義隆は「秋田侍従」または「佐竹修理大夫」と名乗り、陸奥盛岡城主の南部重直は「南部山城守」を名乗っています。南部の方は、南部利敬が国持大名として扱われることが決まったことにより、1808年に「南部侍従」から「盛岡侍従」と名乗りを変えておりますが、このことを指してしばしば「1808年に南部藩は盛岡藩に改名」と表現する ...
「深川区」は現在「東京都江東区」ですが、問題は「平野町」です。少なくとも明治以降、「平野町10番地」なる地名は存在せず、存在するのは「東(または西)平野町10番地」、「平野町一(または二、三、四)丁目10番地」です。
まず、明治維新の時点で平野町は「東平野町」「西平野町」に分かれています。例えば大正3年の番地入りの地図である『新式商業地図』でも「東平野町」と「西平野町」に分かれており、それぞ ...
「深川区」は現在「東京都江東区」ですが、問題は「平野町」です。少なくとも明治以降、「平野町10番地」なる地名は存在せず、存在するのは「東(または西)平野町10番地」、「平野町一(または二、三、四)丁目10番地」です。
まず、明治維新の時点で平野町は「東平野町」「西平野町」に分かれています。例えば大正3年の番地入りの地図である『新式商業地図』でも「東平野町」と「西平野町」に分かれており、それぞ ...
絹川村は現在結城市ですので、「茨城県結城郡絹川村大字久保田」は現在の「茨城県結城市(大字)久保田」に相当します。ただ81番屋敷についてですが、Yahooの地図によると71、74、76、79、84、85、86、87、88、90番地などは現存しますが、81番地は現存しません。
http://map.yahoo.co.jp/address?ac=08207&az=13
明治時代の番地と現在の番地 ...
表高の推移でしたら、『藩史大辞典』や『日本史総覧』、あるいは各種日本史事典の付録を調べればわかります。ただ江戸幕府開府当初の表高は不明な藩も多く、単なる仮定に過ぎない場合も多いです。また朱印状等に載っている石高と、公称高、民間に流布している各武鑑に掲載の石高が全部違っていたりするケースもあり、厳密な石高の議論なども難しいです。
また石高は土地生産性を米の見込み収穫高で評価した、いわば「地租」 ...
明治15年の『日本帝国統計年鑑』によると、豊前の面積は136.63方里となっています。1方里=(216/55)^2 km2ですので、2,107.309 km2に相当します。なおこの数字は伊能大図の3万6千分の一の地図から算出された数字で、若干正確性に欠きます。
その後参謀本部陸地測量部が地図を作成する過程で、面積も修正されています。
昭和5年の国勢調査時の旧豊前域の面積と人口は『昭和五 ...
明治15年の『日本帝国統計年鑑』によると、豊前の面積は136.63方里となっています。1方里=(216/55)^2 km2ですので、2,107.309 km2に相当します。なおこの数字は伊能大図の3万6千分の一の地図から算出された数字で、若干正確性に欠きます。
その後参謀本部陸地測量部が地図を作成する過程で、面積も修正されています。
昭和5年の国勢調査時の旧豊前域の面積と人口は『昭和五 ...
明治15年の『日本帝国統計年鑑』によると、豊前の面積は136.63方里となっています。1方里=(216/55)^2 km2ですので、2,107.309 km2に相当します。なおこの数字は伊能大図の3万6千分の一の地図から算出された数字で、若干正確性に欠きます。
その後参謀本部陸地測量部が地図を作成する過程で、面積も修正されています。
昭和5年の国勢調査時の旧豊前域の面積と人口は『昭和五 ...
(1) 藩の人口
藩の人口は明治初期しかありませんし、集計が中途半端に終わってますので、それほど信頼できませんが・・・
○「近代デジタルライブラリー」で『明治史要. 附録表』を検索し、そこの67頁[37コマ目]にある「使府藩県戸口概表」に、府藩県の戸口・人口が一通り載っています。
○同じく「近代デジタルライブラリー」で『藩制一覧』を検索すれば、すべての藩の身分構成が閲覧できます。
○また大 ...
(1) 藩の人口
藩の人口は明治初期しかありませんし、集計が中途半端に終わってますので、それほど信頼できませんが・・・
○「近代デジタルライブラリー」で『明治史要. 附録表』を検索し、そこの67頁[37コマ目]にある「使府藩県戸口概表」に、府藩県の戸口・人口が一通り載っています。
○同じく「近代デジタルライブラリー」で『藩制一覧』を検索すれば、すべての藩の身分構成が閲覧できます。
○また大 ...
長州藩の実高が100万石を超えたのは明治のことです。ただしこれは支藩である長府藩(豊浦藩)、清末藩、徳山藩、岩国藩を含めた石高です。支藩を含めた長州藩の表高は幕末まで36万9411石3斗1升5合(周防20万2787石6斗7升、長門16万6623石6斗4升5合)。この内5万石が長府藩で、長府藩5万石の内1万石が清末藩として又分知、また徳山藩が4万0010石余、吉川の岩国藩が6万石ですので、本藩である ...
そもそも江戸の人口について、江戸時代初期の記録は存在しません。またある程度信用できるデータが存在するのは、幕府による人口集計が始まった中期以降で、それも町方人口のみが集計され、武家人口は不明のままです。
とりあえず江戸時代中期以降の町方人口について、ある程度元文献を吟味して集めているのが幸田成友「江戸の町人の人口」(社會經濟史學 8(1), 1-23, 1938)ですが、オンラインでは読めま ...
そもそも江戸の人口について、江戸時代初期の記録は存在しません。またある程度信用できるデータが存在するのは、幕府による人口集計が始まった中期以降で、それも町方人口のみが集計され、武家人口は不明のままです。
とりあえず江戸時代中期以降の町方人口について、ある程度元文献を吟味して集めているのが幸田成友「江戸の町人の人口」(社會經濟史學 8(1), 1-23, 1938)ですが、オンラインでは読めま ...
そもそも江戸の人口について、江戸時代初期の記録は存在しません。またある程度信用できるデータが存在するのは、幕府による人口集計が始まった中期以降で、それも町方人口のみが集計され、武家人口は不明のままです。
とりあえず江戸時代中期以降の町方人口について、ある程度元文献を吟味して集めているのが幸田成友「江戸の町人の人口」(社會經濟史學 8(1), 1-23, 1938)ですが、オンラインでは読めま ...
速水氏のオリジナルの文献が手元にないので詳しくは検証できませんが、速水説の場合、中進国である尾張・美濃の人口増加は1600年から1650年の間に1.89倍、1650年から1700年の50年間の間に1.124倍で、その後は幕末までほぼ一定としています。1670年から幕末まで人口が1.124倍となり、馬の頭数が0.55倍となったとすると、1670年から幕末までの間に、馬の頭数の人口に対する割合はほぼ半 ...
速水氏のオリジナルの文献が手元にないので詳しくは検証できませんが、速水説の場合、中進国である尾張・美濃の人口増加は1600年から1650年の間に1.89倍、1650年から1700年の50年間の間に1.124倍で、その後は幕末までほぼ一定としています。1670年から幕末まで人口が1.124倍となり、馬の頭数が0.55倍となったとすると、1670年から幕末までの間に、馬の頭数の人口に対する割合はほぼ半 ...
速水氏のオリジナルの文献が手元にないので詳しくは検証できませんが、速水説の場合、中進国である尾張・美濃の人口増加は1600年から1650年の間に1.89倍、1650年から1700年の50年間の間に1.124倍で、その後は幕末までほぼ一定としています。1670年から幕末まで人口が1.124倍となり、馬の頭数が0.55倍となったとすると、1670年から幕末までの間に、馬の頭数の人口に対する割合はほぼ半 ...
速水氏のオリジナルの文献が手元にないので詳しくは検証できませんが、速水説の場合、中進国である尾張・美濃の人口増加は1600年から1650年の間に1.89倍、1650年から1700年の50年間の間に1.124倍で、その後は幕末までほぼ一定としています。1670年から幕末まで人口が1.124倍となり、馬の頭数が0.55倍となったとすると、1670年から幕末までの間に、馬の頭数の人口に対する割合はほぼ半 ...
(1) 約3000万石とされる石高は、米の収穫高ではない。
日本の総石高は、江戸時代後期の天保期で3055万8917石余、明治5年末で3237万3825石余(実高)ですが、そもそも石高は田・畑・その他小物成等の合計です。幕末の石高に占める「田」の割合の全国的な統計はありませんが、江戸初期の正保期の統計によると、石高の内約7割が田であり、幕末の時点で田の石高は2200万石程度です。
(2) ...
(1) 約3000万石とされる石高は、米の収穫高ではない。
日本の総石高は、江戸時代後期の天保期で3055万8917石余、明治5年末で3237万3825石余(実高)ですが、そもそも石高は田・畑・その他小物成等の合計です。幕末の石高に占める「田」の割合の全国的な統計はありませんが、江戸初期の正保期の統計によると、石高の内約7割が田であり、幕末の時点で田の石高は2200万石程度です。
(2) ...
>>出典元は『消された秀吉の真実―徳川史観を越えて』山本博文・堀新・曽根勇二編
すみません。該当する本に目を通しましたが、「検地時に北条時代の六割しかなかった」という記述を見つけることができませんでした。本書は以下のように複数の学者が執筆した論文集の形をとっており、この中で家康の関連について書いているのは鴨川達夫執筆の第一章と堀新氏執筆の第五章ですが、豊臣秀吉の朱印状における家康の臣下の立場 ...
毛利輝元の石高は吉川広家・毛利秀元の石高を含み、九州の小早川秀秋・小早川秀包の石高を含みません。ただ「120万石」についてはちょっと注意が必要です。
毛利家文書に天正19年(1591年)旧暦3月13日付で発給された領知朱印状・領知目録が残っておりますが(『大日本古文書 家わけ文書第8 毛利家文書之三』所収)、それによると領知は「安芸 周防 長門 石見 出雲 備後 隠岐 伯耆三郡 備中国之内、 ...