6 0 0 0 OA 坂田郡志

出版者
坂田郡
巻号頁・発行日
vol.下, 1913

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@syutoyoshikaze プリリンのブログ記事 https://t.co/mTiFubxa8Y では、『坂田郡志』 https://t.co/mrLrDErgdG にそうあると書いているようです。
吉村風先生、私が「配偶者女性を望む男性は七夕塚へ詣で、配偶者男性を望む女性は彦星塚を詣で」と書いてると指摘した対象は椿井文書説がある「世継文書(世継神社縁起之事)」ではなく ブログ https://t.co/4zXMmT5ITN にある通り『坂田郡志』 https://t.co/ic03jCqk7W だよ。 https://t.co/I4UmvFnDg8
@clane_2015 ところでこれの328コマに出ている地蔵堂は問題のものと同じでしょうか? https://t.co/iLJnfteWFH
1913年『坂田郡志』には蛭子神社の吾嬬石(七夕石)が出てくるけど https://t.co/AeoTB4WnVg 、 1987年発見の『世継神社縁起之叓』には出て来ない。 双方、星河稚宮皇子を書くし、 椿井文書メモ
天神を祀る北野天満宮の七夕は御手洗祭。 世継村七夕の三盥=御手洗 https://t.co/ic03jCHn9W 。 世継を拒む雄朝嬬稚子宿禰天皇に 凍る洗手水を手に世継を説く淡海国坂田郡出身の衣通郞姬(そとおりひめ)の姉の皇后 https://t.co/tX7SikfC8F 椿井文書メモ
天稚彦草子で女は天稚彦=海龍王=彦星を追い天へ昇り、 昴や金星から道案内を受ける。 河内国交野郡と近江国坂田郡の天野川は 太平洋側なのに北上する河川。 北の北極星は太一=天神 世継村七夕の三盥=御手洗 https://t.co/ic03jCHn9W 椿井文書メモ
この墳と1913年坂田郡志がいうかつて別の場所にあった吾嬬石 https://t.co/ic03jCHn9W が世継神社? 「淡海木間攫(※1792) 朝妻川、又息長川とも云よし。今は天の川と云。又、息長之墳、この南に有と云。又、星川稚宮王の墳は古朝妻村の東にありしと云。」P.27 https://t.co/5oYMgjWXMl 椿井文書メモ https://t.co/JS5cbL8UYB
1913年坂田郡志の世継寺の項 https://t.co/wjfIZhnPPZ 1913年蛭子神社の項 https://t.co/AeoTB4WnVg に世継神社と仁秀は出てくる。 でもそれ以前の地志に世継神社が出て来ない。 近江町史1989年は世継神社は蛭子神社に並祀と書かれてる なぜこうなるのか 椿井文書メモ https://t.co/o1ILL2tTku
1913年坂田郡志の世継寺の項 https://t.co/wjfIZhnPPZ 1913年蛭子神社の項 https://t.co/AeoTB4WnVg に世継神社と仁秀は出てくる。 でもそれ以前の地志に世継神社が出て来ない。 近江町史1989年は世継神社は蛭子神社に並祀と書かれてる なぜこうなるのか 椿井文書メモ https://t.co/o1ILL2tTku
継体天皇は雄朝嬬稚子宿禰天皇の皇后・忍坂大中姫命の兄弟・意富富杼王の三代孫。 世継トラブル3人組 允恭天皇 菟道稚郎子 継体天皇 なんかしらんけど「3」。 世継神社七夕も天野川に三盥(坂田郡志1913) https://t.co/ic03jCHn9W 椿井文書メモ https://t.co/P0chIDrxtq
七夕石は蛭子神社にあった物ではなく、元々は東南の塚間路にあったけど、水害時に移動させたと 1913年坂田郡志 https://t.co/mrLrDEIjfG にはあるから、 七夕石と蛭子神社ご祭神が関係してるかどうかは?なのか 〇椿井文書 https://t.co/oCrMVaKLgx
毎⽇新聞滋賀版1998年8月2日きょう七⼣イベント 彦星・織姫、⾏列 朝妻橋上で“再会”--⽶原町、近江町 には「世継神社縁起之事」は出て来ないけど、 記事中の「七⼣⽯」と「彦星塚」は 1913年『坂田郡志』に出てくる https://t.co/ic03jCHn9W 椿井文書メモ https://t.co/8E0BCdQpbg
@historian_chop 1913年坂田郡志は七夕で天野川で願掛けする風習は、 1913年当時は途絶えているけどそのちょっと昔まではやっていたみたいと書いているみたいですね https://t.co/mrLrDEIjfG 。 それを嘘と断定できるかどうかですね。
林屋辰三郎「蓮綱が加賀より来って初代となり、その後も世継姓を名のり十四代に及んでいるが、境内には鎌倉時代の宝篋印塔その他石造遺物が散在し、いずれも息長史の墳墓の後と伝えているのであった」P.128,古典文化の創造,東京大学出版会,1964 椿井文書メモ https://t.co/dLwaN9nbfV
坂田郡志,1913 https://t.co/RAmq87DArg 「土地の傳説によれば……彦星塚……七夕塚と稱す.……天の川……土人の配を得んとするもの女を望む者は七夕塚を祈り,男を欲するものは,彦星塚を祈る,毎年七月朔日より七日の夜半に至り……今は行はずなりぬと,此は近き頃まで行はれしと見え……」 椿井文書記録 https://t.co/zyW5Lgford
『淡海木間攫』(1792) https://t.co/5oYMgjWXMl は「朝妻村の東・星川稚宮王墳」と書くけど、 『坂田郡志』(の蛭子神社から東南2町の塚間路の七夕石 https://t.co/ic03jCHn9W と星川稚宮王墳は天野川越しで対面してたのかな? 椿井文書メモ https://t.co/kyNBy8MVJL
坂田郡志(1913)の蛭子神社内の朝妻石=吾妻石(俗に七夕石)は 『世継神社縁起之事』にも出て来ない。 坂田郡志によれば一説には、元は小字塚間路にあり水害で引っ越して来たから、と https://t.co/ic03jCHn9W 。 むむ 椿井文書メモ https://t.co/kV7LnVelzZ
『坂田郡志』(1913)は地元伝承の世継村女王の墳墓=七夕塚を書き https://t.co/JAp9Csg92n 、 また、元は小字塚間路にあった水害で引っ越して来た、蛭子神社内の朝妻石=吾妻石(俗に七夕石)は、朝妻皇女墓標と伝承されると書く https://t.co/ic03jCHn9W 。 椿井文書メモ https://t.co/aCrcRYCLsR
『坂田郡志』(1913)は地元伝承の世継村女王の墳墓=七夕塚を書き https://t.co/JAp9Csg92n 、 また、元は小字塚間路にあった水害で引っ越して来た、蛭子神社内の朝妻石=吾妻石(俗に七夕石)は、朝妻皇女墓標と伝承されると書く https://t.co/ic03jCHn9W 。 椿井文書メモ https://t.co/aCrcRYCLsR
『淡海木間攫』(1792)が書いた「朝妻村の東・星川稚宮王墳」が椿井政隆(1770-1837)の操作とは考え辛く。 『坂田郡志』(1913)は朝妻神社の星川墓=宝篋印塔と多重塔と、朝妻墳墓=地元伝承の朝妻王の墳墓=彦星塚は別と書く。 それは星川稚宮皇子か?と訝しる。 https://t.co/JAp9Csg92n 。 椿井文書メモ https://t.co/1jmMixfC6m
『世継神社縁起之叓』はあくまで蛭子(世継)神社のご祭神の縁起を書いてるだけで 『坂田郡志』 https://t.co/JAp9Csg92n や 『淡海木間攫』(1792) https://t.co/5oYMgjWXMl の (朝妻村の東)星川稚宮王墳や吾妻(俗に七夕石)については全然書いてないのに、 混同してるのは訂正すべき 椿井文書メモ
1913年『坂田郡志』世継寺 https://t.co/wjfIZhnPPZ 蛭子神社 https://t.co/AeoTB4WnVg をみると、 『世継神社縁起之叓』と非常に似ている縁起があることになる。 椿井文書メモ
1913年『坂田郡志』世継寺 https://t.co/wjfIZhnPPZ 蛭子神社 https://t.co/AeoTB4WnVg をみると、 『世継神社縁起之叓』と非常に似ている縁起があることになる。 椿井文書メモ
「世継神社縁起之叓」に出てくる星河稚宮皇子は 『淡海木間攫』(1792) https://t.co/5oYMgjWXMl にて朝妻村の東・星川稚宮王墳という記載がある。 坂田郡志では朝妻神社星川墓の対象か?と考察されている。 https://t.co/JAp9Csg92n 椿井文書の椿井政隆は1770年生まれ。 https://t.co/Os2zuCrMcz
1913年『坂田郡志』に既に世継村の蛭子神社の七夕行事は掲載され、俗に云う七夕石の名前は吾妻石と記載されてる https://t.co/JAp9Csg92n 。 『世継神社縁起之事』で興福寺と関連づけられてなければ 居醒泉=醒井と磯崎神社の坂田郡だから日本武尊伝承での吾妻石から思う事もできたし、 椿井文書メモ https://t.co/ONErmRmIbv
『世継神社縁起之事』にて蛭子(世継)神社ご祭神と書かれた 朝嬬皇女が一番謎。 1913年坂田郡志に出てくるものの、あくまで坂田郡志が蛭子神社の吾妻石(俗に七夕石)について朝嬬皇女かなぁと想定して書いているだけで。 https://t.co/ic03jCHn9W 椿井文書メモ
1987年研究調査時に発見された世継神社縁起之事は 坂田郡志 https://t.co/ic03jCHn9W に書かれた地元民の伝承である世継(蛭子)神社にある直ぐに日本武尊を連想できる【吾妻石】について触れてないから、 寧ろ伝承の継承という面ではやや邪魔な存在ではある。 椿井文書メモ https://t.co/Bya4hqwjmh
淮南子の牽牛は彦星=河鼓でなく牛宿 https://t.co/gSUPSwmgPv で磯村磯崎神社日本武尊、 淡海木間攫(1792) https://t.co/5oYMgjWXMl の朝妻村の東・星川稚宮王墳と 坂田郡志https://t.co/JAp9Csg92n の朝妻神社2塔=河鼓三星 天ノ川対岸世継蛭子神社吾妻石(七夕石)が弟橘媛? https://t.co/BjuZS6CIEi
1987年発見『世継神社縁起之事』は 蛭子神社ご祭神は星河稚宮皇子&朝嬬皇女で 延暦二十二癸未歳、興福寺仁秀が二人の修行を追想追善供養したのが本源と書いていて、 坂田郡志にある蛭子神社の吾妻石(俗に七夕石)や 朝妻神社朝妻王宝篋印塔や多重塔 https://t.co/JAp9Csg92n や 椿井文書メモ
坂田郡志は墳と2つの塔は別と。 淡海木間攫に出てくるのは星川稚宮王の墳。 では坂田にゆかりの三人(塔+塔+墳)の星川? 星川建日子(筑摩御厨) 星川皇子(坂田の忍坂大中姫命孫) 星川臣摩呂(壬申の乱) https://t.co/ic03jCHn9W 椿井文書メモ
朝妻神社は朝妻筑摩郷。筑摩御厨。 坂田郡志の星川墓 https://t.co/JAp9Csg92n は御膳司の星川建日子(大雀臣 https://t.co/ItxlbIrGKj )で、 淡海木間攫の朝妻村の東・星川稚宮王の墳 https://t.co/5oYMgjWXMl は星川違い? 椿井文書メモ
礒崎神社ご祭神ヤマトタケルの「吾嬬者耶嬬、此云菟摩。」。 吾嬬とは吾が妻らしい。その嬬とは「菟摩」と日本書紀には書いている。 筑波の別名は菟玖波だから、「菟摩」とは「筑摩」。 坂田郡志によると蛭子神社の石は「吾妻石・朝妻石、俗に七夕石」 https://t.co/ic03jCHn9W 椿井文書メモ
1987年発見の『世継神社縁起之事』と 1913年『坂田郡志』 https://t.co/JAp9Csg92n の物語が違う。 前者は星川稚宮皇子と朝嬬皇女、 後者は朝妻神社の宝篋印塔を星川墓と呼び、朝妻王の彦星塚(長屋王の息子?允恭天皇=雄朝津間稚子宿禰天皇?)、 世継神社の石を女王の朝妻石・吾妻石(七夕石)とする
1987年発見の『世継神社縁起之事』の星川稚宮皇子と朝嬬皇女は、 1913年『坂田郡志』の中でもしかして星川稚宮皇子か? https://t.co/JAp9Csg92n もしかして朝嬬皇女か?とは書かれてはいるけれど、土地の伝承とは異なっている。 その1913年『坂田郡志』の推測を元に後世作られた物ではないだろうか。
ストーリー全然違う理由はなんだろう? 長屋王の息子の朝妻王は「流淡路」 https://t.co/nsn73RHwRS 。 淡路島と淡海と、どっちだろう? 女王 https://t.co/JAp9Csg92n とは誰だろう? 朝妻王の妻さん恋人さんは誰か? 椿井文書メモ
1913年『坂田郡志』の土地の伝説 https://t.co/JAp9Csg92n では 朝妻神社の彦星塚は(長屋王の息子の?)朝妻王 https://t.co/R4wpswYw5Z の墓。 世継蛭子神社の朝妻石=吾妻石=七夕石は女王または朝妻皇女と(仁賢天皇の朝嬬皇女か?) 。 椿井文書??『世継神社縁起之事』では星川稚宮皇子と朝嬬皇女。
馬部隆弘先生は椿井文書が今井家から流通したのは明治20・30 年代(1887~1906年)と云う。 1987年発見された椿井政隆(~1837)作の『世継神社縁起之事』が元で七夕伝承が米原市に起きたにしては 1913年『坂田郡志』に記録された地元の七夕伝承とストーリーが違いすぎる https://t.co/RAmq87DArg 。 https://t.co/j6jQotuBLF
旧法性寺村大字世継の蛭子神社(世継神社)吾嬬石(あずまいし)や七夕石(たなばたいし)。 ヤマトタケル?。 https://t.co/AeoTB4WnVg
星川稚宮皇子は木梨軽皇子・衣通郎女兄妹の甥。 衣通郎女は近江国坂田郡出身の衣通郎姫の姪、 木梨軽皇子は甥。 椿井文書ではないかと云われている『世継神社縁起之事』の朝妻皇女は星川稚宮皇子の姪。 でも口承とは違うのね https://t.co/FqzZlzQ9Ci https://t.co/oI1KBqay6G
坂田の衣通郎姫の姉の皇后 忍坂大中姫命の息子の 木梨軽皇子も立太子していたからお世継ではあった。 星川墓は坂田郡志によれば二基 https://t.co/JAp9Csg92n 一基が星川皇子、 朝妻神社朝妻王廟が木梨軽皇子 世継神社朝妻女王廟が衣通郎女 なら悲劇の一族かな
@TaniYoko 坂田郡志も明治時代初期の神社整理と廃仏の時期の縁起由緒の書き換えについて言及してるね。 椿井文書研究はこの大事件に触れない「明治元年三月二十八日太政官布告……又町村志に記せる神社の由緒を通覧するに、近人の修正せし由緒の却て其社の価値を不安ならしむるあり、」https://t.co/N149pY7vBR
1913年『坂田郡志』下巻P.655-657 https://t.co/JAp9Csg92n に坂田宮所蔵『筑摩社并七箇所之圖 https://t.co/XhrcQR9XkO 』について書いてある。 椿井文書と云われる藤原胤政寫しでは無いようだ。 朝妻神社に「朝妻王廟」、 世継神社に「朝妻女王廟」と書き込まれ、どうも息長川とは書かれていない。 https://t.co/vKg7cCLK6j

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