著者
仏書刊行会 編
出版者
仏書刊行会
巻号頁・発行日
vol.119, 1922

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『吾妻鏡』『北条九代記』以外での「謀曲」の使用例。『中尊寺経蔵文書』。 https://t.co/TmknYN375I
大日本仏教全書に浄瑠璃寺流記事が入っているのですが、「奈良大門造営事四足。是ハ奈良道赤門之事也」とあります。ところが、加茂町史版だと「是ハ奈良道前門之事也」になっています。今も赤門坂と呼ばれているので、「赤門」だと思うんですが、どっちが正しいんでしょう
例えば世継寺は号、所在地、開基時の僧侶、ご本尊部仏、僧房の数、本山が記され、ただのリストではありません。 https://t.co/u65q77cCEl 椿井文書記録 https://t.co/P8SUqpOMFG
そこよね。1987年発見された「世継神社縁起之事」は 1915年書籍となった椿井文書説がある興福寺官務牒疏に影響を受けてストーリーを変更したのか https://t.co/EEXh4gJUoc 、 それ以前から仁秀と書いてあったのか。 近江町史1989年は「世継神社々起写」を参照して仁秀の名前を出している。 なぜ?? https://t.co/RAkbzxSkFx
『世継神社縁起之事』の興福寺は南都興福寺別院。 開基は仁秀、本尊は釈迦さんで 藤本孝一先生が椿井文書説があると書いた『興福寺官務牒疏』 https://t.co/EEXh4gJUoc と同じ。 『近江輿地志略(1733)』にも世継の興福寺は天台の寺として出てくる https://t.co/8JpvLGfD5X https://t.co/NUs62EykTP
『世継神社縁起之叓』椿井文書か否かのキーは 興福寺官務牒疏「世継寺。號興福寺。在世継。仁秀僧正開基。本尊釈迦佛。 https://t.co/EEXh4gJUoc 」だけど、 椿井文書の椿井政隆が生まれる前の1734年の 『近江輿地志略』世継に「興福寺遺址」とあるので少なくとも寺は彼の創作じゃないとわかる。 https://t.co/DTiHMQM8Kk
『興福寺官務牒疏 https://t.co/KxlVlbyDCp 』は椿井文書という【説】があると藤本孝一氏は述べていたけれど、 その説を実証するにはどうしたらいいんだろうか。
1733年度会延経『神名帳考證』が朱智神社ご祭神を「迦邇米雷王」としたのはOKで、 著者未実証の『興福寺官務牒疏 https://t.co/KxlVlbyDCp 』が朱智神社の場所を比定したのはOUT? なら式内論社もOUTか。なんでだろう? とりあえず興福寺官務牒疏椿井文書説の実証が欲しい。
『特選神名牒 https://t.co/FgPjE5NDcq 』は今井氏の『朱智神記 https://t.co/JKWn9HtQq8 』は『興福寺官務牒疏 https://t.co/KxlVlbyDCp 』抜萃と云う。 官務牒疏は朱智神社の場所を比定してる。今井さんは明治8年にはそれを見てる。 椿井権之丞が興福寺から持ち出した?それとも椿井文書で、
明治5年に興福寺は廃寺、15年復興。 今井さん https://t.co/sskUqKZznV はどこで椿井文書説がある『興福寺官務牒疏 https://t.co/uz0eiTbbum 』を見たのかしら? それとも彼が書いた? または朱智神社ご祭神について同じ内容は地元では他に縁起書があった? https://t.co/KSb6RweLdA https://t.co/UlGFpSeS2v
東大は椿井文書説ありな『興福寺元衆徒中御門系圖』を所蔵。 椿井文書説ありな『興福寺官務牒疏 https://t.co/KxlVlbyDCp 』を『神祇志料 https://t.co/y1KP7vZl8d 』で引用した元水戸藩士・東京帝国大学の栗田寛の教え子が『大日本史 https://t.co/KxlVlbyDCp 』で引用。 でも悪いのは穂谷村村民?
椿井文書とも云われる1794年『興福寺元衆徒中御門系圖 https://t.co/3C5lbeBUiO 』と非常に似ている 京都府明治9(1876)年度『式内神社考證 綴喜郡』の今井氏『朱智神紀 https://t.co/JKWn9HtQq8 』の内容は 椿井文書と云われる『興福寺官務牒疏 https://t.co/KxlVlbyDCp 』と同じで
興福寺官務牒疏はこれなのか。 https://t.co/0FxTvncmvj
@Hisona_ http://t.co/lSkwdoYOdj 糠 喜 び

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