国家鮟鱇 (@tonmanaangler)

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明暦3(1657)に大村藩内に潜伏キリシタンが多数いることが判明し「長墓改」と呼ばれる墓の調査が行われ、副葬品まで調べる徹底的なものだったそうだ。「千々石ミゲルの墓」のある伊木力には65基あったという。 https://t.co/SGPMBipS9D
日本神話の解釈って俺にはどうにも納得いかないことばかり。この論文もしょっぱなから納得いかなくて躓いてしまった。 https://t.co/XCQhI6TN12
ピノッキオ(物語の半ばあたりで)「ほかの子たちと同じように、人間になりたいよう!」と言ってるのか。多分蘇生後のことだろうけど。 https://t.co/i7NOf2ATMC
「『日本書紀』のマドコオフスマは、大嘗祭とは無縁」。俺もそう思う。これだけでなく神話と儀礼を結び付けようとする考えの中には、実際には無関係なもの他にもあると思う。でもこういう考えは受け入れられやすいものなのか今でも新説が。何とは言わないけど。 https://t.co/aQYbyRs9FB
勝俣氏の論文あった。「ささらの小野」考 : 万葉集巻三・四二〇番歌を中心に https://t.co/r5MVt7tMNL
(論文審査の結果の要旨)「物語にありがちな曖昧な表現まで、合理的に解釈しようとして、強引と思われる結びつけも若干認められた」 https://t.co/FrsN7bxUqe

9 1 1 0 OA 俚言集覧

なお「空(そら)」の語源が「反(そ)る」の名詞形「反(そ)ら」云々とありますけど、これは一説に過ぎず、しかもこれは空が反っているという意味ではなくて、天を見上げる時に体が反るという意味のようですね。 https://t.co/2RZaA05Zq8
福島県域の成立と会津若松分県問題 https://t.co/eyKmv6XICq
『立志教訓菅原道真』(大正7)。源光の死に触れてない。 https://t.co/r753qNTA3L
菅原道真の怨霊について調べてて見つけた論文。史料に記載された断片的な情報を元に、失われた天神譚を復元するというもの。バラバラだったものが1つになっていく過程にめちゃ興奮する。これはすごいと思った。 https://t.co/JtL4WXP2hN
「東北: 東夷北秋の略」説への疑問を書いた論文もあった。 https://t.co/5kNOuYBIKA
直接関係ないけど江戸時代の落書。「筋違を渡りくらべて今ぞ知る鬼門の水野落ちる速さよ」。 https://t.co/NmOReN0AaC

1 0 0 0 OA 東京市史稿

めちゃくちゃ気になるのが、平岡庄助の屋敷が上知された翌年の寛保3(1743)5月7日付の史料に登場する「御掃除之者 庄助」という名字の無い人物。平岡庄助その人ではなかろうか? https://t.co/L8aavLvkxh

1 0 0 0 OA 東京市史稿

上の「本所割下水近所安藤伊兵衛平岡庄助両人上ヶ地」の史料の日付は寛保2(1742)5月9日だが、5月12日付史料に「本所北割下水」「平岡庄八」の記述がある。 https://t.co/V3jN7y2bUB

1 0 0 0 OA 東京市史稿

寛保2(1742)に「本所割下水近所安藤伊兵衛平岡庄助両人上ヶ地」を林部五郎左衛門が拝領したという史料がある。 https://t.co/vZjnmLJexw
「厩橋能舞台の建築経緯」(林和利)興味深い。 https://t.co/ontQ5nPsGA

1 0 0 0 OA 大成武鑑 4巻

中奥御小姓衆に「平岡甲斐守(父丹波守 五百表)」が。家紋は「轡」。何者かわからないけど、これで平岡氏の家紋に「轡(なのか丸十文字なのかわからん。同じページに嶋津伊与守がいるけど見分けつかない)」があるのは確実だろう。 https://t.co/fRXPZPamLU

1 0 0 0 OA 大成武鑑 4巻

平岡石見守頼徳という人物は九曜紋。検索ではこの人ヒットしない。小早川秀秋家臣平岡石見守頼勝の系統か? https://t.co/IXq4mZl0Hz

1 0 0 0 OA 大成武鑑 4巻

平岡は平岡でも平岡道弘の紋が轡紋?なのを確認。こっちはこっちでなぜこの紋なのか気になるけど。あと「父因幡守」とある。ウィキペディアに「旗本平岡道忠(越中守、500石)」とあるけど。 https://t.co/HbYkpct7Up
「聖エラスムスとエラスムス像 上」(坂本満) https://t.co/LyB1axIk9o

52 3 0 0 OA 寛政重脩諸家譜

牧野成里「朝鮮の晋州において皷をよび貨狄の像を得てかへる」(寛政重脩諸家譜. 第4輯) https://t.co/ul4uQR9n7L
で、検索したら「エラスムス像は語る(宮下良明)」に「臼杵の港で船の守り本尊であるエラスムス像を簡単に取り外したとは思えないのである」と書いてあった。 https://t.co/7X9KiRaAgg
『「破られた約束」にも含まれていると予想されるケルト的要素』と書いてるのもあるそうだが、原典でも「鉦鼓」とあるので、別にケルト的要素では無いと思われ。 https://t.co/qili6BVyuy
そんでこの密護(吉祥雲院密護)の知人に憲海という人物がいて、絵の妙手で六角堂の近く能満院に工房があったという。そんだけの話ではあるけど気にはなる。 https://t.co/NLvsNrwaEZ

3 0 0 0 OA 言継卿記

『言継卿記』天文3年1月26日に「清四郎」が出てくる。兄の「局務」清原業賢より先に名前が書いてあるのは幕府奉行衆だからか?もう一度『言継卿記』読み直さなきゃだな。 https://t.co/pLs9UpCMdt

3 0 0 0 OA 言継卿記

『言継卿記』天文元年6月8日「才鶴(清三位入道次男)」。清原宣賢の次男と書いてある。 https://t.co/etKDBZw6LP
似てるなんてものじゃない。俺からすれば「同じ」だと言ってもいいくらい。「海幸・山幸の神話と『旧約聖書』のイサクの物語(日本民族学会第 11 回研究大会報告要旨)」 https://t.co/x0EFgEHl8G
こんな「歴史」もある。フランスのボウルドオは、歴史科学の理想は言葉ではなくて、統計的数字と公式とを通じて集団事象を表現することにあるとし、これに反し事実の普通の叙述は「文芸の従属的対象」だとする。 https://t.co/jwWbQSr54j (P12)

2 0 0 0 OA 勤皇菊池一族

そんで、たとえば戦時中の『勤皇菊池一族』(菊池寛 昭和17)でも「一先づ撤退して再挙を計る」と書いてあるのだから、それは戦後の「平和主義」のせいではないと思う。違いますかね? https://t.co/m6OJVYyi7K

1 0 0 0 OA 掛川誌

佐野常世は鎌倉に行こうとして馬入川(相模川河口)で溺れて水死したという。何となくだけど似てる。何となくだけど。 https://t.co/62g1AIruI2
ラヴィエイユはドラートルの弟なのか!それならドラートルからラヴィエイユに譲渡されたと考えるのが自然だろう。 https://t.co/KiHipRyrkx
さらに異説「結局、この「漫画」は譲ってもらえなかったものの、版画家のウジェーヌ・ラヴィエイユから別の「北斎漫画」を手に入れたブラックモンは、」 https://t.co/7KMLYv32M4
また異説。「有田かなにかの日本製の焼き物だった。ドラートルが1855年のパリ万国博の流失品をどこかで手に入れたのだ。」 https://t.co/5muAS0IBf8
さらに新情報。上の記事では、ドゥラートルのと家でブラックモンが北斎の本を発見したことになってるが、摺師ドラトル→印刷者ラヴィ―ユ→ブラックモンの流れ。しかも浮世絵を陶器の包装材にしたのは日本人ではなく「ドラトルの家人」であると。 https://t.co/tQRO4yz6OC
「ゾラが乾物屋から購った乾酪(チーズ)の包み紙が偶然にも安物の錦絵(一説に北斎の「漫画」の反故)であつたのだが、慧眼なるゾラは驚喜のあまり、これを十襲珍蔵して、版画家のブラックモンに誇示し、ブラックモンも、それが「病みつき」になつて」 https://t.co/l5VXlfhieV

2 0 0 0 OA 甲斐国志

「弁誉上人 参州吉良ノ東條持廣ノ弟ニテ大樹寺ノ勢誉愚底上人入室ノ弟子」(『甲斐国志』) https://t.co/5jcUMYvgby

2 0 0 0 OA 芝居ばなし

「だが妙行寺の過去帳には元禄十五年十月十二日とある。これは発狂して飛び出した日なのであらう。」(『芝居ばなし. 第1編』三田村鳶魚) https://t.co/heVYoXz6FS

1 0 0 0 OA 群馬県史

『寛政譜』「御尋により、家の系図を台覧に入るのところ言状の次第よろしからざりしかば、先帰郷すべしと台命あり」の部分が『群馬県史』だと「始て家康に謁す。乃ち家系を台覧に供す」としか書かれてない。 https://t.co/EeimhbQhGt
「したがって,今日の鬱蒼とした森林状の墳丘は筆者がかつて明らかにした明治時代中期の大規模な植林によるものである。(中井正弘1992年『仁徳陵この巨大な謎』p.132 創元社)」 https://t.co/W0yWnz6aUT
ざっと調べたところでは『上野国新田郡史』(自序に明治44とあり)に出典抜きでそう書いてある。 https://t.co/bCGFUR1DOV
ところで朝日新聞の記事では「信長の正室の本名をめぐって、国文学者から出された新たな学説が注目を集めている。」とあるけど、これ2014年の論文ですね。 https://t.co/5IvqI2MSOu

4 0 0 0 OA 参考日本歴史

「子義元更に西三河の松平氏を攻めて参河を取り、将に三箇国を領せんとし、海道一の弓取と称せらる」(『参考日本歴史』(長沼賢海 大正8) https://t.co/STLc1Z6YnG
さらに調べると、発生元は「黒田官兵衛の跛足の原因」(杉浦 守邦)という論文の模様。(『醫譚』復刊第99号(通巻第116号)2014(平成26)年6月30日発行) https://t.co/00UbzQacyy
少し調べたところだと『聖徳太子御一代記図絵』(明26)では寝殿で生まれたことになってますね。 https://t.co/CkMvzkZ9pT
ハナフリの分布と形態 : 兵庫県を中心として https://t.co/qQHPvcx7pe
一方『福知山沿革私記』には「爾後この川筋付替のために水害多く城下は困惑したといふ」とある。 https://t.co/V41hbMdID7

2 0 0 0 OA 石川県史

「濃州」が「能州」の誤記なのは確定。『御湯殿上日記』天文5年6月20日に「のとのしゅご」と書いてあった。 https://t.co/Oth33tgoQ7
見たら確かに「周山」とある。ところが註を見ればこれは亀山城のことだという。大日本史料総合データベースでも「信長の將惟任光秀、津田宗及を丹波亀山城に饗す、」とある。 https://t.co/vCSc5A30cX
検索したら「織田氏の出現とその存在形態」(山﨑布美)に「一族が一人残らず尾張に移ったとは考えにくい」と書いてあった。そりゃそうだろうと思う。でも越前に土着の織田一族がいるのかは全くわからなかった。 https://t.co/Io7h5jTmyl
「人間不在の歴史」という呼び方があるのか。 https://t.co/5wD4sNQT65
黄當時という佛教大学の中国語学が専門の学者がこの件に熱心に取り組んでる模様。 https://t.co/OzApum0cRS
梅本記 : 嘉永二年新吉原梅本屋佐吉抱遊女付け火一件史料の紹介(横山 百合子) https://t.co/CUbxz2PTzS

1 0 0 0 OA 駿国雑志

「東路に、たふときものは、ふしの山、むさしの大城、ふたらねの神」。「ふたらね」とは「補陀落嶺(久能山)」のことか「二荒根(日光)」のことかと阿部正信が悩んでる。久能山で読んでるのだから久能山では?いずれにせよ東照神君を指すことにはなる。 https://t.co/W0k7n9pJtH
「同じヨーロッパと言っても乾燥した地中海北岸と、陰欝な北欧とはかなり違う筈だが、この差異を和辻は相対的なものとしか考えていなかったのである。」 https://t.co/TehQxE7jzk
このうち「モンゴル」については「草原」と呼べと言うことなんだろうと思う。「帝国」はチンギスハンは皇帝ではなく中華帝国の一部族の族長だということだろうか?よくわからない。 https://t.co/5MmO0Nhloh
田中貴子氏の論文でもそれは触れられている。ただ「変成男子の法」とは何かということに俺は疑問がある。 https://t.co/72n2cSLDxZ
論文はこれね。読めばわかるけど、結論としては「彼は童子という男女の性の混沌とした存在であったのではないかと考えたいのである」とある。 https://t.co/72n2cSLDxZ

2 0 0 0 OA 妻木戦記

さらに「妻木傳兵衛頼忠後傳入ト號ス」とある頼忠の肖像画まである。 https://t.co/q1F81QNQDM

2 0 0 0 OA 妻木戦記

広忠の弟で本能寺の変で信長方で戦死した頼知の子の惟知(日本六蔵、日東惟知)。肖像画もあるのか。 https://t.co/wTMPZiQ13D

2 0 0 0 OA 妻木戦記

これか「日東家其始め妻木藤右エ門尉源廣忠舎弟妻木長兵衛頼知(石伯)天正十午年六月二日京都にて戦死す其嫡男久右エ門惟知姓を日東と改め妻木傳兵衛尉頼忠臣と相成」 https://t.co/wtBRUJsBtu

2 0 0 0 OA 妻木戦記

メモ https://t.co/s0Or0fKEdW

19 0 0 0 OA 日本剣豪列伝

同じ直木三十五「武勇伝雑話」に『島津独特の「すてがまり」といふ法で」とありますね。こっちは小説ではないから、直木三十五は事実だと認識してたのだと思われ。 https://t.co/sGzx11WBXz

4 0 0 0 OA 山陽名所記

そもそも、ここでいう「天皇」とは神武天皇なんだが、第7代孝霊天皇皇子の吉備津彦命が何でそこにいるんだ?「古書を按ずるに」とあるけど、本当にそんな古書あるのか? https://t.co/L7KuQlM2UE

3 0 0 0 OA 神代秘史百話

なお酒井勝軍は「神代秘史を一読すると、彼は正に葺不合第六十四代天皇の皇子であることが分つた」と書いてる。「神代秘史」とは偽書で有名な竹内文書のこと。 https://t.co/sKnP8ftXG2
武田元明調べてたらいちいち出典で行き詰まる。 「武田元明の最後について〔お尋ね〕」「しかし、私が今日まで学んだ範囲では武田元明が明智光秀に組したという記録には未だ巡り会ったことがありません」 https://t.co/JtCt1zSVbS

1 0 0 0 OA 福井県史

福井県史(大正9)「義景継嗣の夭死に會し傷心憂悶し加ふるに閨門亦亂れしかば義昭その頼むに足らざるを知り」と義昭の越前退去理由を書いている。 https://t.co/N60iUPL2hT
瑩山紹瑾-峨山韶磧-源翁心昭という流れ。瑩山は「白山の氏子」と自称してたらしい。峨山もウィキペディアによれば白山修験道の行者説があるそうだ。 https://t.co/XNj9JqopvJ

1 0 0 0 護法童子

「護法童子」についてはあまり注目されていないという論文(1973)。すごく興味深いことが書いてある。 https://t.co/Ltn5D9fIlD
ついでに『米国の家庭及社会』(明治41)の「日傘と帽子」 https://t.co/WJemKW7LSP
『外人の観たる日本』(明治40)。日本見物に来た欧州の一紳士V氏の日本人評(という体裁。イザヤ・ベンダサン的な?)。「日傘」で検索してて見つけた。 https://t.co/VfCBLZok3n

4 0 0 0 OA 贈位諸賢伝

「三淵長薫の子長して、長岡播磨守元常の嗣となる」とあるから細川元常が「長岡」を称していたという説があるのか。つまり義昭追放後よりずっと前から「長岡」だったと。 https://t.co/Re10O7gSHQ
『簠簋抄』は「清明」の母が「化来の者」であり、清明が信田の森を尋ねたら古狐に会ったという話で、父と母の出会いとかのエピソードは無いようだ。 https://t.co/795rODxGoP
ちなみにこっちの論文だと「彦部雅楽頭晴直長男弥太郎信勝」とあり、孫四郎は嫡男ではないと思われるが、よくわからん。 https://t.co/sfM09GBVVA
この論文だと『彦部家系図』に彦部雅楽頭晴直と子の孫四郎輝信が殉死したとある。養子の可能性もあるけどわからない。 https://t.co/NxKyokhN6U

6 0 0 0 OA 言継卿記

ん?「彦部雅樂頭、同孫四郎、」とあって次に小さい文字で「小林弟」とあるので孫四郎が小林弟なのかと思ったのだが違うのか? https://t.co/8FaCsWopjp
山梨県に伝わる護良親王妃雛鶴姫の伝説は昭和初期に生成されたものだそうだ。 https://t.co/ePV5xRQJRG
検索したらあっさり見つかった。「トカラ列島小宝島の海賊伝説」。元々与助という海賊の伝説があったところに、キッドの埋蔵金騒動によって「新しい伝説の生成」があったようだ。 https://t.co/v00RdwhoK4
で、「織田信長の信心・不信心の様相 : 中世宗教史のなかの信長」 https://t.co/xF3AxhNzIK
「富岡鐵斎--賛文に潜むもう一つの藝術観」という論文に鉄斎の絵の逸話について「これは一休と蓮如が共に阿弥陀仏を揶揄した話であって、阿弥陀仏を尊い仏様と尊敬し、礼拝するという一般的な常識から極めて外れた話である」と説明してる。違うでしょと思う。 https://t.co/6nsaOUabDd

1 0 0 0 OA 一休和尚

『一休和尚』(狂禅坊編 大正2)に一休が「阿弥陀といふものは全体何の為めに置きますかな」と聞くと、蓮如が「これは異なお訊ね、あれは看板でござる」と答えたとある。その前に「米櫃の掃除をして居ります」とあるから、この米櫃とは阿弥陀像なんだろう。 https://t.co/Xwgadfq56Q
類話はあって『笑ひながら修養になる一休珍問答集』(昭和17)に阿弥陀如来像のことだと思うが「興行の木戸銭取りの看板」と蓮如が言ってる。 https://t.co/vsCM4in9n1
でも論文にもこんなこと書いてある。「フランス革命の時にハイチへ亡命したフランス人の家系で」(『風と共に去りぬ』における模倣の欲望)。 https://t.co/vrJrrE9AAb
ペドロ・コレイア氏のことは仏教史学者上川通夫氏の出張報告にも出てくる。「確かな研究手法と見識を備えておられると感じた」。 https://t.co/KCZXvd0tav
で、今検索したら「岐阜城の空間認知 : 文献・絵図・考古資料を用いて」(内堀信雄)という論文 https://t.co/nI6zPbsj5I
「獲麟」については孔子が言いたかったことは何か?とそれが後世にどう解釈されたのかということがあって、一概に「獲麟」はどういう意味かということは言えないと思われ。 https://t.co/p9VXW8D5zH

1 0 0 0 OA 甲斐叢書

『甲斐叢書. 第10巻』に「武田信玄ノ時地蔵原ニ龍地新町ヲ建テ」とあった。「蔵原」ではなく「地蔵原」なのか?「甲斐市龍地地蔵原」という地名があるから、こっちが正しいのだろうか?だがしかし…保留。 https://t.co/rYQrHJaDl4

5 1 0 0 OA 甲斐志料集成

『甲斐志料集成. 6』に「寺ハ今北山筋龍池村ニアリ」とある。今は龍地村(竜地)にあるというのだから、前は蔵原にあったということだろう。 https://t.co/aWAgSbXww6

4 2 0 0 OA 甲斐志料集成

『甲斐志料集成. 5』に「古地ハ蔵原ニアリ」と書いてある。蔵原は現北杜市高根町藏原だと思われ。 https://t.co/3cY8flXogr

3 0 0 0 OA 松平記 : 校訂

さらに『松平記』に「毛利新助と云ふもの義元の首をとりしが、左の指を口へさし入れ義元にくひきられしと聞へし」とある。『松平記』の成立年は不明だけどこっちの方が先だと思われ。 https://t.co/GqQ84JPZtA
山内菜央子氏の論文うなずける部分が多い。「かくして詞書と絵との間のズレが浮き彫りになった」(「山中常盤絵巻」研究--女性表象をめぐって) https://t.co/cRv8wMBelt

2 0 0 0 OA 寺子屋

「尤も宗幸を村に留めて置いたのが子弟教育のためであつたか又書記としてゞあつたかそれともその両方のためであつたかは本文が簡単過ぎて明瞭でないが、平泉博士が之を解して子弟教育のためであつたとされることには大いなる無理はない様に思はれる」寺子屋 石川謙 昭和10 https://t.co/I8yQWLqBzj

6 0 0 0 OA 光秀 : 戯曲

それはそうと明智滝朗氏は大正13年の時点で既に煕子と書いてるわけですね。 https://t.co/L22Y3HBdrX

1 0 0 0 IR 沢庵と武家

「御家にハ随分之衆も御座候つれ共、年よりはて、止められぬ道にて、皆々はて申候。又次々ノ人の甲斐根性ヲ御覧立被成、情の死を仕様ニ御仕立候事専用候」 https://t.co/EAFpcfKxIF
「丹波国牢人没落、殊大将分荻野十郎左衛門尉父其外随分者共討死」(北野社家日記) https://t.co/16UDRI8fV9

9 0 0 0 OA 家忠日記

「随分者三拾二人うち取り候て家康かけかわ(掛川)まて」(家忠日記2) https://t.co/pIYDHZbLne

1 0 0 0 OA 織田信長

『織田信長. 前編』(小泉策太郎 1897[明治30])に「利政薙髪道三と号す、蓋し亦た乱世の一梟雄なり」とあるな。しかしこれを当時そう言われていたと解釈するのは無理。 https://t.co/zb5bXNrByV

1 0 0 0 OA 現代之土浦

土浦の等覚寺は元は極楽寺と言い開基は八田知家の子の了信。時代がかなり遡る。元は真言宗の僧で明玄と号したが親鸞に帰依して法名を了信としたそうだ。 https://t.co/h1UfkimejK
『静岡市史編纂資料. 第6卷』に「浮田備考斎」「後に静岡で歯医者のことを備考党と異名するのもこの人から起こったもので」とある。 https://t.co/OJwXcOJUKt

お気に入り一覧(最新100件)

@tonmanaangler https://t.co/RQwV0m1WlD この論文のようですね。残念ながらウェブでみられるわけではないですが。

47 0 0 0 OA 関ケ原

「捨伏(すてがまり)」が登場する、直木三十五の『関ヶ原』。https://t.co/KfBOjdAlml これは昭和7年に春陽堂から刊行された版だが、前年の昭和6年に早稲田大学から刊行されているようなので、できればそちらも確認したい。

9 0 0 0 OA 海録

「因に云、九十九神といふ妖怪の畫巻あり、是も土佐家の百鬼夜行には猶及ばで、たらぬといふ心なる柳べし、これも亭の同じ時の談なりき、乙未(天保六年)六月九日來話、」 山崎美成『海録』国書刊行会、1915(https://t.co/dg4zSWp5Lq) https://t.co/B5GHuoFCoo

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