著者
川口 幸也 Yukiya Kawaguchi
出版者
国立民族学博物館
雑誌
国立民族学博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Ethnology (ISSN:0385180X)
巻号頁・発行日
vol.36, no.1, pp.1-34, 2011-10-31

本稿では,プリミティヴ・アートと総称された非西洋圏の造形が,戦後の日本でどのように紹介されたのかを,昭和30 年代に行われた展覧会を通してなぞり,そこに映っていた日本人の自己像を明らかにしようとする。1955 年(昭和30),東京で「アジアアフリカ珍奇人形展」という展覧会が,バンドンで行われたアジアアフリカ会議に合わせて開かれた。その後1960 年(昭和35)には,国立近代美術館で「現代の眼―原始美術から」展が開催される。わずか5年間に,アジア,アフリカの仮面や神像たちは珍奇人形から原始美術へと昇格した。この原始美術展は新聞,雑誌の大きな注目を集め,アジア,アフリカ,オセアニアなど原始美術によって語られる「彼ら」と,近代化に成功した「われわれ」との対比が強調された。さらに4 年後の1964 年(昭和39),東京オリンピックの年,まず「ミロのビーナス」展が官民一体の協力によって実現した。また東京オリンピックの芸術展示として「日本古美術展」などが東京で行われた。この展示には124 点もの縄文時代の造形が出品されていたにもかかわらず,「原始美術」という枠はここでは消えていた。おそらく,戦後復興を遂げ,先進国の一員となったことを世界にアピールするうえで,日本の原始美術は不都合だったのである。珍奇人形から原始美術への格上げも,原始美術とされた縄文の土器,土偶の古美術への編入も,また「ミロのビーナス」展が行われたのも,東京オリンピックを機会に,西洋先進国と肩を並べたということを国の内外に向かって誇示しようとする明確な意思の表れだったといえる。ただし一方で,土方久功のように,冷静に西洋に距離を置こうとしていた人間がいたことも忘れるべきではない。

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