- 著者
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菅原 祥
- 出版者
- 京都産業大学
- 雑誌
- 京都産業大学論集. 人文科学系列 (ISSN:02879727)
- 巻号頁・発行日
- vol.55, pp.91-118, 2022-03-31
戦時中を囚人としてアウシュヴィッツ=ビルケナウ収容所で過ごしたゾフィア・ポスミシュの実体験を元に強制収容所における女性看守と女性囚人の関係性を描いたポーランド映画『パサジェルカ』(1963 年)は,制作途中に監督であるアンジェイ・ムンクが急死し未完成の映画として公開されたという経緯もあり,強制収容所を描いたフィクション映画の中でもとりわけ謎めいた作品として知られている。本稿はこの映画『パサジェルカ』をポスミシュによる小説版『パサジェルカ』とともに考察の対象とすることで,収容所におけるトラウマ的経験がいかに事後的に想起され,再解釈されうるかということの可能性を検討する。本稿が明らかにするのは,この『パサジェルカ』という作品が,ドイツ人看守のリーザとポーランド人の囚人マルタという二人の人間をめぐる物語の多様な解釈を生み出すことによって,取り返しのつかないトラウマ的な過去に対するある種の現在からの「介入」を可能にするような作品であるということである。ポスミシュの小説版『パサジェルカ』とムンクの映画版『パサジェルカ』は,それぞれ異なった形によってそうした介入の可能性を示唆している。さらに,ムンクの『パサジェルカ』におけるユダヤ人の子供のエピソードが示唆しているのは,子供に象徴されるような「絶対的に無垢な犠牲者」の死や痛みを媒介とした,ある種の共感の共同体の可能性である。そこにおいては,マルタとリーザという本来であれば「被害者(=ポーランド人)」と「加害者(=ドイツ人)」に明確に分けられる両者の間にもしかしたら存在し得たかもしれない,この「哀しみの共同体」のかすかな可能性が示唆され,それによってすでに固定され,変えられないはずの過去のトラウマ的経験は,存在し得たかもしれない別の可能性へとダイナミックに開かれていくのである。