著者
菅原 祥
出版者
学校法人 開智学園 開智国際大学
雑誌
開智国際大学紀要 (ISSN:24334618)
巻号頁・発行日
vol.15, pp.5-17, 2016-03-01 (Released:2017-11-20)

20世紀後半のポーランドを代表する作家スタニスワフ・レムは、自身の作品の中で一貫して人間の認知の問題、とりわけ理解不能な「他者」を前にしたコンタクトの可能性について考察してきた作家である。こうしたレムの問題関心は、現代の多くの社会学的問題、例えば認知症患者のケアの現場などにおける介護者-被介護者の相互理解の問題などを考える際に多くの示唆を与えてくれるものである。本稿はこうした観点から、スタニスワフ・レムの短編『テルミヌス』を取り上げ、理解不可能な存在を「受容する」ということの可能性について考える。『テルミヌス』において特徴的なのは、そこに登場するロボットがまるで老衰した、認知症を患った老人であるかのように描かれているということであり、主人公であるピルクスは、そうしたロボットの「ままならない」身体に対して何らかの応答を余儀なくされる。本稿は、こうしたレム作品における不自由な他者の身体を前にした人間の責任-応答可能性について考えることで、介護に内在する希望と困難を指摘する。
著者
菅原 祥
出版者
京都産業大学
雑誌
京都産業大学論集. 人文科学系列 (ISSN:02879727)
巻号頁・発行日
vol.55, pp.91-118, 2022-03-31

戦時中を囚人としてアウシュヴィッツ=ビルケナウ収容所で過ごしたゾフィア・ポスミシュの実体験を元に強制収容所における女性看守と女性囚人の関係性を描いたポーランド映画『パサジェルカ』(1963 年)は,制作途中に監督であるアンジェイ・ムンクが急死し未完成の映画として公開されたという経緯もあり,強制収容所を描いたフィクション映画の中でもとりわけ謎めいた作品として知られている。本稿はこの映画『パサジェルカ』をポスミシュによる小説版『パサジェルカ』とともに考察の対象とすることで,収容所におけるトラウマ的経験がいかに事後的に想起され,再解釈されうるかということの可能性を検討する。本稿が明らかにするのは,この『パサジェルカ』という作品が,ドイツ人看守のリーザとポーランド人の囚人マルタという二人の人間をめぐる物語の多様な解釈を生み出すことによって,取り返しのつかないトラウマ的な過去に対するある種の現在からの「介入」を可能にするような作品であるということである。ポスミシュの小説版『パサジェルカ』とムンクの映画版『パサジェルカ』は,それぞれ異なった形によってそうした介入の可能性を示唆している。さらに,ムンクの『パサジェルカ』におけるユダヤ人の子供のエピソードが示唆しているのは,子供に象徴されるような「絶対的に無垢な犠牲者」の死や痛みを媒介とした,ある種の共感の共同体の可能性である。そこにおいては,マルタとリーザという本来であれば「被害者(=ポーランド人)」と「加害者(=ドイツ人)」に明確に分けられる両者の間にもしかしたら存在し得たかもしれない,この「哀しみの共同体」のかすかな可能性が示唆され,それによってすでに固定され,変えられないはずの過去のトラウマ的経験は,存在し得たかもしれない別の可能性へとダイナミックに開かれていくのである。
著者
菅原 祥
出版者
京都産業大学
雑誌
京都産業大学論集. 社会科学系列 (ISSN:02879719)
巻号頁・発行日
no.38, pp.75-96, 2021-03-31

本稿が試みるのは「SF の社会学」という新たな試みに向けた第一歩である。それは,SF 文学を一種の社会学的テクストとして(あるいは,従来の社会学が苦手としてきたような領域を社会学的な考察の俎上に載せるためのヒントになるようなテクストとして)読むことを提唱する。この目的のために,本稿はアーシュラ・K・ル・グィン(ル=グウィン)の『所有せざる人々』(1974)を「時間の社会学」の観点から詳細に読解し,この作品が社会学における時間に関する議論にどのような新たな視点を付け加えることができるかを検討することで,SF が社会学にどのような貢献をなしうるかを考察する。考察の結果,SF 文学には「時間の社会学」に対して以下のような有効性があることが示唆された。第一に,「異化の文学」としてのSF 文学は,その最良の場合において「他なる時間のあり方」への想像力を喚起する。そこにおいてSF 文学は,物理学や生物学の知見を取り入れることによって「社会的時間」という社会学用語が含意する人間中心主義の独善を免れることが可能なのであり,それによってさまざまな存在レベルの時間を相互に横断し結びつけるような社会理論へと思考を媒介していくことが可能である。第二に,SF 文学は,このような「他なる時間のあり方」をさらに「人間的時間」へと再び差し戻し,翻訳しなおすことによって,人間と「未来」との関わりの有り得べき可能性の探求を可能にしている。そこにおいては現実に対するユートピア的な改変可能性の力を有する「未来」のあり方が示唆される。ここに,「未来」通じて現在を批判的に考察する文学としてのSF 文学の強みがある。
著者
平野 修 河西 学 平川 南 大隅 清陽 武廣 亮平 原 正人 柴田 博子 高橋 千晶 杉本 良 君島 武史 田尾 誠敏 田中 広明 渡邊 理伊知 郷堀 英司 栗田 則久 佐々木 義則 早川 麗司 津野 仁 菅原 祥夫 保坂 康夫 原 明芳
出版者
帝京大学
雑誌
基盤研究(C)
巻号頁・発行日
2015-10-21

奈良・平安時代において律令国家から、俘囚・夷俘と呼ばれたエミシたちの移配(強制移住)の研究は、これまで文献史学からのみ行われてきた。しかし近年の発掘調査成果により考古学から彼らの足跡をたどることが可能となり、本研究は考古学から古代の移配政策の実態を探るものである。今回検討を行った関東諸国では、馬匹生産や窯業生産などといった各国の手工業生産を担うエリアに強くその痕跡が認められたり、また国分僧尼寺などの官寺や官社の周辺といったある特定のエリアに送り込まれている状況が確認でき、エミシとの戦争により疲弊した各国の地域経済の建て直しや、地域開発の新たな労働力を確保するといった側面が強いことが判明した。
著者
菅原 祥
出版者
京都産業大学
雑誌
京都産業大学論集. 社会科学系列 (ISSN:02879719)
巻号頁・発行日
vol.36, pp.75-102, 2019-03-30

本稿は,近年の日本社会における「団地」を一種のノスタルジアの対象として見るようなまなざしのあり方を「団地ノスタルジア」と名付け,この団地ノスタルジアを分析するための足がかりとなるような予備的考察を提供することを目的としている。この目的のため,本稿では1960年代当時において「団地」を文学作品の中で扱ったものとして影響力の大きかった安部公房の小説『燃えつきた地図』(1967)を現代の団地ノスタルジアに先行する想像力を含んだ先駆的作品として読み解き,そこに見出される論理が現在においていかなる意義を持ちうるのかを検討する。さらに,この『燃えつきた地図』において提起された問題が,現在の団地ノスタルジアにおいてどのような形で継承・発展させられているのかを検討するために,近年の代表的な団地ノスタルジア的文学作品として,柴崎友香『千の扉』(2017)を取り上げる。 これらの分析を通じて新たに明らかになった知見は以下の4点である。(1)団地ノスタルジアとは,「団地」という建築空間の中に,ここ数十年の時間とそこにおける断片的な記憶が寄り集まって集積するような一種の「磁場」を見出す想像力のことである。それは決して何らかの美化された過去への回帰願望ではなく,むしろそうした過去の記憶が集積した結果として存在する「現在」を志向している。(2)団地ノスタルジアは,時に徹底して「反ノスタルジア的」「反ユートピア的」である。すなわちそれは,過去に措定された「幸福な過去」へと回帰することで共同性や全体性を回復しようとするような,素朴なノスタルジアやユートピア主義とは一線を画すものであり,むしろ過去に対するより反省的・批判的な態度のありかたを示唆している。(3)団地ノスタルジアはこのような安易なユートピアへの回帰による共同性の復活を拒絶しつつ,新たな形での「共同性」を模索する想像力である。(4)この共同性は,団地という場が孕む「危機」や「空虚」から目をそむけるのではなく,逆にそれに徹底的に向き合うことから生まれうるものである。
著者
菅原 祥
出版者
京都産業大学
雑誌
京都産業大学論集. 社会科学系列 (ISSN:02879719)
巻号頁・発行日
no.36, pp.75-102, 2019-03-30

本稿は,近年の日本社会における「団地」を一種のノスタルジアの対象として見るようなまなざしのあり方を「団地ノスタルジア」と名付け,この団地ノスタルジアを分析するための足がかりとなるような予備的考察を提供することを目的としている。この目的のため,本稿では1960年代当時において「団地」を文学作品の中で扱ったものとして影響力の大きかった安部公房の小説『燃えつきた地図』(1967)を現代の団地ノスタルジアに先行する想像力を含んだ先駆的作品として読み解き,そこに見出される論理が現在においていかなる意義を持ちうるのかを検討する。さらに,この『燃えつきた地図』において提起された問題が,現在の団地ノスタルジアにおいてどのような形で継承・発展させられているのかを検討するために,近年の代表的な団地ノスタルジア的文学作品として,柴崎友香『千の扉』(2017)を取り上げる。 これらの分析を通じて新たに明らかになった知見は以下の4点である。(1)団地ノスタルジアとは,「団地」という建築空間の中に,ここ数十年の時間とそこにおける断片的な記憶が寄り集まって集積するような一種の「磁場」を見出す想像力のことである。それは決して何らかの美化された過去への回帰願望ではなく,むしろそうした過去の記憶が集積した結果として存在する「現在」を志向している。(2)団地ノスタルジアは,時に徹底して「反ノスタルジア的」「反ユートピア的」である。すなわちそれは,過去に措定された「幸福な過去」へと回帰することで共同性や全体性を回復しようとするような,素朴なノスタルジアやユートピア主義とは一線を画すものであり,むしろ過去に対するより反省的・批判的な態度のありかたを示唆している。(3)団地ノスタルジアはこのような安易なユートピアへの回帰による共同性の復活を拒絶しつつ,新たな形での「共同性」を模索する想像力である。(4)この共同性は,団地という場が孕む「危機」や「空虚」から目をそむけるのではなく,逆にそれに徹底的に向き合うことから生まれうるものである。
著者
菅原 祥
出版者
学校法人 開智学園 開智国際大学
雑誌
開智国際大学紀要 (ISSN:24334618)
巻号頁・発行日
vol.16, pp.19-32, 2017 (Released:2017-11-20)

本稿が検討するのは、ポスト社会主義の東欧諸国における社会主義の過去の「文化遺産化」、すなわち社会主義時代の遺物が保存・展示の対象となる「文化遺産」として扱われるようになるプロセスである。とりわけ本稿が着目するのは、そうした現象が地域のローカルなコミュニティの文脈でどのように起こっているのか、人々が自分たちの住む都市環境の中でこうした社会主義の遺物をどのように扱っているのかという問題である。こうした問題を考察するため、本稿ではポーランドの「社会主義都市」ティヒ市を事例として取り上げる。 ノヴェ・ティヒ(「新しいティヒ」の意)の建設計画は1950年に、当時のポーランドにおける「社会主義建設」の一環としてスタートした。1989年の社会主義体制崩壊以降、ティヒはしばしば社会主義体制下におけるモダニズム的都市計画の失敗例として扱われてきた。しかし、2005年のティヒ市博物館のオープン以降、こうした状況は徐々に変わりつつある。人々は、自分たちの都市の歴史やその建築物を、徐々に保存・記念・展示の対象として扱い始めたのである。 上記のプロセスの分析を通じて、本稿が指摘するのは、こうした社会主義の遺物の「文化遺産化」が直接起こるのではなく、むしろさまざまな「迂回路」や「言い訳」を通じて起こっているということである。あるときは人々は、伝統的で正統な「文化遺産」のカテゴリーをどんどん拡大していく中で社会主義の遺物をも「文化遺産」として扱うのであり、また別のときには、社会主義的な彫像を「脱イデオロギー化」することで、すなわちそれらの彫像に別の意味を与えることによって保存を可能にするのである。ここでは人々は逆説的にも、社会主義に直接言及しないことによって、社会主義の遺物を保存する実践を行っているのである。
著者
菅原 祥
出版者
京都産業大学
雑誌
京都産業大学論集. 人文科学系列 (ISSN:02879727)
巻号頁・発行日
vol.54, pp.241-272, 2021-03-31

炭鉱はかつて,ポーランドにおいて最重要の産業として大きな重要性を有していた。ところが近年,ポーランドにおいては炭鉱や石炭がますますネガティブに表象されるようになりつつある。そのような中,本稿は,ポーランドの代表的な産炭地である上シロンスク地域に焦点を当て,そこにおいて社会主義時代から現在に至るまで炭鉱の経験がどのように可視化され,表象され,またいかなるまなざしを向けられてきたのかを,この地域に現存する有名な炭鉱住宅,ギショヴィエツとニキショヴィエツに着目して論じることで,そうしたローカルなコンテクストの中における炭鉱へのまなざしが,現在においてどのような意義や重要性を有しているのかについて検討する。分析の結果,ニキショヴィエツおよびギショヴィエツをめぐっては,単なる「工業施設」としての炭鉱というイメージ以外に,少なくとも以下の3 つの炭鉱をめぐるイメージが確認できた。①「自然」を破壊するものであると同時にそれ自身も「自然」とみなすことができるような,両義的かつ神秘的なトポスとしての「炭鉱」,②「文化遺産」「産業遺産」としての炭鉱,あるいは「小さな祖国」としての産炭地,③戦前から社会主義期,さらにはポスト社会主義の現在へと連綿と続く炭鉱夫の集合的経験・集合的記憶の領域を,支配的秩序に対する一種の「抵抗」の足がかりとして再発見することの可能性。このように,ポーランドにおいては「炭鉱」をめぐる上記のようなさまざまな記憶,経験,イメージ,言説が複雑に絡み合っている。本稿の分析の結果,そのような多様なイメージや記憶が交錯する場として「炭鉱」を再考することには大きな意義と可能性があるということが示唆された。
著者
菅原 祥
出版者
日本社会学会
雑誌
社会学評論 (ISSN:00215414)
巻号頁・発行日
vol.64, no.1, pp.20-36, 2013

本稿は, ポーランドのクラクフ市・ノヴァ・フータ地区を研究対象として, 社会主義ポーランドにおけるノヴァ・フータがかつてそこの住民にとってどのように体験され, また現在ポーランドの言説空間の中でどのように扱われているか, また, ポスト社会主義と言われる現在において, 社会主義的「ユートピア」建設という過去とどのように向き合いうるかを検討することを目的としている. かつて「社会主義のユートピア」として讃えられ, 現在では社会主義の負のイメージを全面的に背負わされているノヴァ・フータという場所は, 当時の社会主義体制がめざした「ユートピア」像に対して実際にそこに住む住民たちはどのように反応・対処したのかを考え, さらに, ポスト社会主義の現在において, 社会主義の「過去」の経験がどのようなアクチュアルな意味をもちうるのかを考える際に格好のフィールドである. 本稿は, 雑誌資料や出版物などの二次資料をおもに扱いつつも, 適宜筆者が行ったインタビュー調査を参照しつつ, ポスト社会主義の「現在」における生の中でかつての社会主義的「ユートピア」の記憶と体験がもつ意味と, そうした過去を今あらためてアクチュアルなものとして問い直すことがもつ可能性を探求することをめざしている.
著者
菅原 祥
出版者
関西社会学会
雑誌
フォーラム現代社会学 (ISSN:13474057)
巻号頁・発行日
vol.9, pp.113-125, 2010

本論の目的は、旧ソ連・東欧の社会主義圏におけるユートピア的想像力が当時の人々の意識や実践とどのような相互作用を及ぼし合い、そこにはどのような思考や実践の可能性が存在したのかを明らかにすることである。この目的のために、本論は1950年代のポーランド・ドキュメンタリー映画を当時の雑誌記事などと合わせて分析することにより、社会主義のユートピア的想像力がいったいどのような形で映画のなかで映し出される「現実」をとらえようとしていたのかを考察する。分析から明らかになったことは、1950年代前半の「社会主義リアリズム」のドキュメンタリーにおける特異な時間意識をもとにした未来志向のユートピア的想像力が、1956年の「雪どけ」以後に現れた「黒いシリーズ」と呼ばれるドキュメンタリーにおいては、言わば「ポスト・ユートピア的」とでも言いうるような別の現実認識のありかたに取って代わられたということである。これら二種類の映画のありかたの違いは、単なる体制側のプロパガンダと反体制側による真実の暴露といったような、単純な政治的対立図式で理解できるようなものではない。むしろそれは、社会主義のユートピア的想像力における意識や知覚のありかたの変容をしるしづけていたのである。結論として本論は、一枚岩の抑圧的体制と思われがちな社会主義体制のプロジェクトのなかに、実は多様な想像力や実践のありかたが存在していたのだということを示唆する。
著者
菅原 祥
出版者
京都産業大学
雑誌
京都産業大学論集. 社会科学系列 (ISSN:02879719)
巻号頁・発行日
vol.38, pp.75-96, 2021-03-31

本稿が試みるのは「SF の社会学」という新たな試みに向けた第一歩である。それは,SF 文学を一種の社会学的テクストとして(あるいは,従来の社会学が苦手としてきたような領域を社会学的な考察の俎上に載せるためのヒントになるようなテクストとして)読むことを提唱する。この目的のために,本稿はアーシュラ・K・ル・グィン(ル=グウィン)の『所有せざる人々』(1974)を「時間の社会学」の観点から詳細に読解し,この作品が社会学における時間に関する議論にどのような新たな視点を付け加えることができるかを検討することで,SF が社会学にどのような貢献をなしうるかを考察する。考察の結果,SF 文学には「時間の社会学」に対して以下のような有効性があることが示唆された。第一に,「異化の文学」としてのSF 文学は,その最良の場合において「他なる時間のあり方」への想像力を喚起する。そこにおいてSF 文学は,物理学や生物学の知見を取り入れることによって「社会的時間」という社会学用語が含意する人間中心主義の独善を免れることが可能なのであり,それによってさまざまな存在レベルの時間を相互に横断し結びつけるような社会理論へと思考を媒介していくことが可能である。第二に,SF 文学は,このような「他なる時間のあり方」をさらに「人間的時間」へと再び差し戻し,翻訳しなおすことによって,人間と「未来」との関わりの有り得べき可能性の探求を可能にしている。そこにおいては現実に対するユートピア的な改変可能性の力を有する「未来」のあり方が示唆される。ここに,「未来」通じて現在を批判的に考察する文学としてのSF 文学の強みがある。
著者
遠藤 謙 菅原 祥平 北野 智士
出版者
一般社団法人 日本ロボット学会
雑誌
日本ロボット学会誌 (ISSN:02891824)
巻号頁・発行日
vol.32, no.10, pp.855-858, 2014 (Released:2015-01-15)
参考文献数
22
被引用文献数
1
著者
福田 宏 姉川 雄大 河合 信晴 菅原 祥 門間 卓也 加藤 久子
出版者
成城大学
雑誌
基盤研究(C)
巻号頁・発行日
2020-04-01

本研究は、社会主義期の旧東欧諸国を事例として権威主義体制の強靱性を明らかにしようとするものである。従来の政治学の議論では、全ての国や地域は民主化されるべきであり、実際においても、その方向に向かっているという暗黙の了解が存在した。ところが、2010年代半ば頃より、民主主義の「後退」や権威主義体制の「しぶとさ」が盛んに議論されるようになってきている(例えば、モンク『民主主義を救え!』2019)。その点において、東欧の権威主義体制は今こそ参照すべき歴史的経験と言える。本研究では、史資料の公開やオーラルヒストリーによって急速に進みつつある歴史学上の成果を活かしつつ、当時における体制の内実に迫りたい。
著者
菅原 祥
出版者
日本社会学会
雑誌
社会学評論 (ISSN:00215414)
巻号頁・発行日
vol.64, no.1, pp.20-36, 2013 (Released:2014-09-10)
参考文献数
26

本稿は, ポーランドのクラクフ市・ノヴァ・フータ地区を研究対象として, 社会主義ポーランドにおけるノヴァ・フータがかつてそこの住民にとってどのように体験され, また現在ポーランドの言説空間の中でどのように扱われているか, また, ポスト社会主義と言われる現在において, 社会主義的「ユートピア」建設という過去とどのように向き合いうるかを検討することを目的としている. かつて「社会主義のユートピア」として讃えられ, 現在では社会主義の負のイメージを全面的に背負わされているノヴァ・フータという場所は, 当時の社会主義体制がめざした「ユートピア」像に対して実際にそこに住む住民たちはどのように反応・対処したのかを考え, さらに, ポスト社会主義の現在において, 社会主義の「過去」の経験がどのようなアクチュアルな意味をもちうるのかを考える際に格好のフィールドである. 本稿は, 雑誌資料や出版物などの二次資料をおもに扱いつつも, 適宜筆者が行ったインタビュー調査を参照しつつ, ポスト社会主義の「現在」における生の中でかつての社会主義的「ユートピア」の記憶と体験がもつ意味と, そうした過去を今あらためてアクチュアルなものとして問い直すことがもつ可能性を探求することをめざしている.
著者
菅原 祥
出版者
日本橋学館大学
雑誌
紀要 (ISSN:13480154)
巻号頁・発行日
vol.15, pp.5-17, 2016-03-01

20世紀後半のポーランドを代表する作家スタニスワフ・レムは、自身の作品の中で一貫して人間の認知の問題、とりわけ理解不能な「他者」を前にしたコンタクトの可能性について考察してきた作家である。こうしたレムの問題関心は、現代の多くの社会学的問題、例えば認知症患者のケアの現場などにおける介護者-被介護者の相互理解の問題などを考える際に多くの示唆を与えてくれるものである。本稿はこうした観点から、スタニスワフ・レムの短編『テルミヌス』を取り上げ、理解不可能な存在を「受容する」ということの可能性について考える。『テルミヌス』において特徴的なのは、そこに登場するロボットがまるで老衰した、認知症を患った老人であるかのように描かれているということであり、主人公であるピルクスは、そうしたロボットの「ままならない」身体に対して何らかの応答を余儀なくされる。本稿は、こうしたレム作品における不自由な他者の身体を前にした人間の責任-応答可能性について考えることで、介護に内在する希望と困難を指摘する。