- 著者
-
石川 まりあ
- 出版者
- 北海道大学文学研究科
- 雑誌
- 研究論集 (ISSN:13470132)
- 巻号頁・発行日
- vol.15, pp.69-80, 2016-01-15
カレン・ラッセルの短篇〝Reeling for the Empire"(2013)は,歴史的事実
とファンタジーの混じりあう,一種怪奇的な作品である。舞台は,殖産興業
によって近代化を推し進める明治日本。官制の製糸工場に集められた貧しい
少女たちは,帝国の斡旋人に騙されて奇妙なお茶を飲まされ,みずからの腹
で絹糸を生産する蚕と人間の「あいのこ」に変身させられてしまう。設定の
奇想性をおけば,その筋立て上は,工場に拘束され搾取されるヒロインが抵
抗の道をみいだし,自由の獲得をめざすという,古典的な主題が目を惹くか
もしれない。ただし,伝統的なフェミニズムの枠組みを援用しつつも,ラッ
セルは,「過去の選択」をめぐるより普遍的な問題を描きだしているのではな
いだろうか。自らの悲惨な境遇を決定づけてしまった労働契約の瞬間を悔み,
自責に苦しむ主人公キツネの姿からは,取り返しのつかない過去といかに向
きあって生きていくか,という根本的な主題が浮かび上がる。それを考える
手がかりとなるのは,物語の中核をなす「糸繰り」(reeling)のモチーフに織
りこまれた,過去-現在-未来の関係性である。女工たちが日々を費やす糸
繰り作業の一方方向の回転運動は,時間の不可逆性とリンクし,二度と過去
には戻れないという絶望を生む。しかし,この力学を通常の糸繰り作業なら
ば故障とみなされる「逆回転」へと反転させたとき,「間違った方向」である
はずのその現象こそが,過去との関係においては有効な生存戦略となる。キ
ツネと仲間の女工たちは,糸繰りをつうじて,三つの過去との向きあいかた
を試行する―