- 著者
-
Clercq Lucien
- 出版者
- 北海道大学大学院メディア・コミュニケーション研究院 = Research Faculty of Media and Communication, Hokkaido University
- 雑誌
- メディア・コミュニケーション研究 (ISSN:18825303)
- 巻号頁・発行日
- vol.69, pp.33-70, 2016-03-25
日本の社会と、日本に統合される以前のアイヌの社会の関係は、領土をめぐる抗争と征服の長い歴史に特徴付けられる。その歴史の過程で、アイヌは北へ北へと追いやられ、それは1599年に松前藩の蝦夷地支配が徳川幕府により承認され、島の南西の和人地にその支配拠点が確立されるまで続く。幕府はしかし、二度にわたって蝦夷地の直接支配を行ってもいる。一度目は1799年から1821年まで、二度目は1855年から1867年までである。とりわけ二度目の時期は、やがて起きる蝦夷が島の植民地化を決定づけた時期でもある。明治時代になると、蝦夷が島は北海道と改称され、日本の国家の一部とされていくのである。それまで蝦夷は、松前藩主導の保
護の下に管理されるただの商業的支所にすぎず、松前藩の要求もまた、経済的なものに限定されていた。ところが江戸末期より、蝦夷は開拓すべき広大な領土となる。その資源は大規模に活用され、そこに暮らす人々は、未成熟な福祉国家の好意的な、しかし温情主義的でもある保護の下に置かれることになるのである。実際に、幕府による蝦夷の直接支配のさなか、異例の政治的措置がとられている。そこには国の負担による最新医療の提供も含まれており、それが頂点に達したのは、蝦夷地に居を構える日本人だけでなく、アイヌにも実施された天然痘に対する予防接種である。この措置は、同化を求める幕府の意志と、日本の近代の幕開きとを示し
ている(江戸時代1600-1868)。この政策は、構造のうえでは儒教における「五徳」の論理と慈善的統治とに結びついている。生成しつつある帝国のメンバー全てが、この慈善的統治の恩恵を受けるべきものとされたのである。この政策はまた、徳川幕府の好意の受益者であるということは、その事実をもって、国の保護下にあることを意味するという考えを示してもいる。この政治的選択は、アイヌたちの自治にすぐさま影響を及ぼした。これ以降、胎動を始めた近代国家の周辺に位置するアイヌたちは、できるだけすみやかに同化させるべき分子とみなされるようになっていくのである。流行病や植民地化による激しい動揺を受けた他の社会文化的解釈(その幾例かは本論の考察の対象となるであろう)と同様、病に関するアイヌの文化的概念もまた壊滅的な変化を蒙り、それに伴い、二分され既にぐらつき始めていた社会文化的均衡はさらに脆いものとなった。徳川幕府にとっては、ロシア帝国による征服の脅威を前に、蝦夷の広大さとその防衛とは、兵站術上の重要な問題であった。幕府にとって、アイヌの援護を確保することが最重要であった。数の上では乏しいとはいえ、アイヌは北海道の風土を知悉していた。そしてなにより、アイヌはもっとも大切な交易相手であり、その交易の独占権はなんとしても保持せねばならず、またアイヌの労働力も欠かせないものになっていたためである。島の支配が松前藩から幕府へと移行した際のアイヌに対するこの態度変化は、それゆえ、アイヌの社会に対して重大な影響を及ぼすとともに、その政治的自立を著しく弱めるものであった。アイヌを是が非でも単一民族という幻影のなかに取り込もうとするこの意志は、形質人類学の研究を条件付け、その結果、アイヌは衰退期にあるばかりか、滅びゆくことを運命付けられた「民族」とみなされるようになっていく。これに対して、アイヌの速やかな適応能力は、彼らの行動様式がその内部に自己の崩壊の種を宿していたかにみえる反面、その復活の種もまた宿していたということを逆説的に示している。アイヌたちは破滅を避けるため、妥協的な適応戦略を見出していた。政治家ついで大学関係者たちにより、1960年代の社会運動の隆盛まで保たれていた、滅亡を運命付けられた人々という受動的なイメージとは程遠く、アイヌの歴史はむしろ、その卓越した抵抗の力、適応の妙、そしてあらゆる試練の末に、彼らの歴史を世界的な先住民族の網の目に結び付けたその生命力によって特徴付けられるのである。こうして、2008年に至り、アイヌは日本の先住民族として認められ、その文化の継承が保障されるに至ったのである。