著者
CLERCQ Lucien
出版者
北海道大学大学院メディア・コミュニケーション研究院 = Research Faculty of Media and Communication, Hokkaido University
雑誌
メディア・コミュニケーション研究 (ISSN:18825303)
巻号頁・発行日
vol.71, pp.1-36, 2018

先の論文では、アイヌのアイデンティティの再表明において、虐げられたマイノリティ、とりわけアメランディアンとアフリカ系アメリカ人との対比がいかに重要であったかを考察した。たしかに、初期の政治的活動家たちの位置取りは、部落民や極左の活動家たちの行動に着想を得てなされたものではあるが、1970年代初頭に彼らのあとを継いだ若きアイヌの指導者たちは、長らく奪われていた基本的権利を回復するために闘う他の民族たちと自己同一視を図ったのであった。当時、混血がかなり進んでいたため、アイヌの若い世代は、社会的、民族的に自分たちが特殊であることを自覚していた。その特殊性は、日本的なものの荒波に揉まれながら決して失われることのない、独自の文化的ハイブリッドに裏打ちされたものであった。日本の介入がアイヌの社会にさまざまな危機をもたらしたことは事実である。とりわけ、日本の価値体系がより脆弱なアイヌの価値体系に与えた衝撃はアイヌの文化的基盤の一部を木っ端微塵にし、アイヌは日本人との共存を強いられることになったのであるが、それはアイヌにとって極めて困難なことであった。アイヌに残された唯一の道は、伝統的構造のいくつかを犠牲としながら順応することであった。日本の文化のうちには、アイヌがすでに慣れ親しみ、威信を高める目的で自文化のうちにとりこんでいた要素もあり、そうした要素を補償的に取り入れなおすことで、アイヌは完全な同化を免れたのである。異種交配の初期形態が胚胎したのはこうした葛藤を交えた状況下においてであった。しかし、植民地主義的過程がどんなに激しく進行しようとも、深部に秘められたアイヌの伝統的な宗教的・社会文化的構造が破壊されつくすことはなかった。また、伝統とのつながりを保とうとするアイヌの情熱や、歴史の転換点において新しい伝統を生み出そうとした若い世代の欲望などを考慮するのであれば、アイヌにおける異文化受容は部分的であったとみなしうるだろう。実地での体験が教えるところによれば、アイヌはつねに、日本の社会文化のなかから、そして他の民族から提供される豊富な文化的オプションのなかから、自分たちに役立つものを選別しつづけているのである。こうしてアイヌは、儀礼に関する記憶に基づいて歴史の再領有を行うという壮大なプロセスを始動させながら、アイデンティティの再構築に挑むことになったのである。その具体的な事例が、文化的な年中行事である二つの記念祭、すなわち鮭の神を祭るアシリチェップノミと歴史的英雄を祭るシャクシャイン祭りである。本論はその詳細について論じたものである。この二つの祭りは、今日のアイヌ文化における主要なイベントとして、アイデンティティの再構築や社会政治的復権を目指した弛まぬ努力を支える積極的な文化保存の思考と深く結びついているのである。
著者
Clercq Lucien
出版者
北海道大学大学院メディア・コミュニケーション研究院 = Research Faculty of Media and Communication, Hokkaido University
雑誌
メディア・コミュニケーション研究 (ISSN:18825303)
巻号頁・発行日
vol.70, pp.1-35, 2017-03-25

今日、日本の人口およそ1億2,700万人に対し、北海道に暮らすアイヌはおよそ1万7千人とされている(「平成25年度 北海道アイヌ生活実態調査報告書」、北海道環境生活部による)。かつて、同化を急ごうと目論む国家権力により過去からの暴力的な断絶を強いられたアイヌではあるが、1960代以降になると、同様の試練に直面した他の先住民族と共に、自民族の過去を積極的に探し求めるようになる。先住権の獲得と適用とを求める長い闘争の最中、2008年6月6日には、アイヌ民族を先住民族とすることを求める決議が衆参両議院で採択されるに至ったが、それでもなお、アイヌによる断片化された過去の探索が止むことはないだろう。なぜならその探求は、過去を復元するために、あるいは過去が消失した理由を説明するために不可欠だからである。過去の探求はまた、多数派とは異なる歴史と出自を拠り所として、より実際的な政治的要求をするためにも欠かせないものである。だからこそアイヌは、自己の歴史と出自とを常に定義し、洗練しようと努めているのである。実際アイヌは、日本社会への同化を容易にするために、極めて早い段階から若者たちの日本語教育と社会文化的な模倣を励行する一方で、家庭内や政治的な集いの場においては、先住民としての特殊性を常に意識しながら、異文化受容に抵抗するための戦略を練り上げていたのである。植民地主義的企ての当然の帰結として、大量の和人の流入は、北海道に新たな社会の出現をもたらした。アイヌの生態学的・社会文化的基盤は新参者の登場によって修正を迫られたのである。しかし、新しい社会の登場が既存のアイヌ社会を激変させる一方で、その新たな社会の内部や国体の内部にアイヌが完全に吸収されることはなかった(その理由の一つとして1899年に制定された「旧土人保護法」の存在があげられよう。アイヌの同化を目的としたこの法律は、伝統的な言語、風習、価値の否定を伴う疎外的な性格を有していたのである)。これら二つのグループの関係は、おおまかには、植民者と被植民者の関係の枠内において捉える事が可能である。アイヌは、数の面からも技術の面からも、巨大な植民地主義的暴力を押し返すための術をもたず、征服の間もその後も、両者間の関係を調整することができずにいたのである。植民者たちは、アイヌからの収奪を促進するため、その歴史性をながらく否定してきた。しかし実際は、アイヌは歴史性の創造者でありまたその保持者であるといえるだろう。自らを襲う幾多の変動に対し、アイヌは決して受動的であったわけではない。アイヌの共同体はむしろ、数々の英雄的人物(往年の戦争指導者、芸術家、作家そして今日の活動家)の行動がそれを示すように、度重なる異文化受容の試練に際して発揮される闘争性と強靭な抵抗力、並びに他の先住民族の闘争にヒントを得た戦術の練磨によって特徴付けられるのである。抵抗運動の発展に伴い、アイヌを襲う社会文化的な変動に抗するための、政治的な直接行動主義もまた、その激しさを増していった。こうした動向を背景として、1960年代半ばより、アイヌのアイデンティティとその歴史の(再)構築を目指した重要な運動が巻き起こることとなる。その運動は、アメリカインディアンとアフリカ系アメリカ人の運動から部分的に想を得ており、主に雑誌(『アヌタリアイヌ:われら人間』)を通じて表明された。この事実は、アイヌが国際的なネットワークに連なったことを示しており、その主要な目的は、孤立の解消とともに、それまで彼らの要求に好意的に耳を傾けようとはしなかった政府に対して圧力をかけることにあった。
著者
Clercq Lucien
出版者
北海道大学大学院メディア・コミュニケーション研究院 = Research Faculty of Media and Communication, Hokkaido University
雑誌
メディア・コミュニケーション研究 (ISSN:18825303)
巻号頁・発行日
vol.69, pp.33-70, 2016-03-25

日本の社会と、日本に統合される以前のアイヌの社会の関係は、領土をめぐる抗争と征服の長い歴史に特徴付けられる。その歴史の過程で、アイヌは北へ北へと追いやられ、それは1599年に松前藩の蝦夷地支配が徳川幕府により承認され、島の南西の和人地にその支配拠点が確立されるまで続く。幕府はしかし、二度にわたって蝦夷地の直接支配を行ってもいる。一度目は1799年から1821年まで、二度目は1855年から1867年までである。とりわけ二度目の時期は、やがて起きる蝦夷が島の植民地化を決定づけた時期でもある。明治時代になると、蝦夷が島は北海道と改称され、日本の国家の一部とされていくのである。それまで蝦夷は、松前藩主導の保 護の下に管理されるただの商業的支所にすぎず、松前藩の要求もまた、経済的なものに限定されていた。ところが江戸末期より、蝦夷は開拓すべき広大な領土となる。その資源は大規模に活用され、そこに暮らす人々は、未成熟な福祉国家の好意的な、しかし温情主義的でもある保護の下に置かれることになるのである。実際に、幕府による蝦夷の直接支配のさなか、異例の政治的措置がとられている。そこには国の負担による最新医療の提供も含まれており、それが頂点に達したのは、蝦夷地に居を構える日本人だけでなく、アイヌにも実施された天然痘に対する予防接種である。この措置は、同化を求める幕府の意志と、日本の近代の幕開きとを示し ている(江戸時代1600-1868)。この政策は、構造のうえでは儒教における「五徳」の論理と慈善的統治とに結びついている。生成しつつある帝国のメンバー全てが、この慈善的統治の恩恵を受けるべきものとされたのである。この政策はまた、徳川幕府の好意の受益者であるということは、その事実をもって、国の保護下にあることを意味するという考えを示してもいる。この政治的選択は、アイヌたちの自治にすぐさま影響を及ぼした。これ以降、胎動を始めた近代国家の周辺に位置するアイヌたちは、できるだけすみやかに同化させるべき分子とみなされるようになっていくのである。流行病や植民地化による激しい動揺を受けた他の社会文化的解釈(その幾例かは本論の考察の対象となるであろう)と同様、病に関するアイヌの文化的概念もまた壊滅的な変化を蒙り、それに伴い、二分され既にぐらつき始めていた社会文化的均衡はさらに脆いものとなった。徳川幕府にとっては、ロシア帝国による征服の脅威を前に、蝦夷の広大さとその防衛とは、兵站術上の重要な問題であった。幕府にとって、アイヌの援護を確保することが最重要であった。数の上では乏しいとはいえ、アイヌは北海道の風土を知悉していた。そしてなにより、アイヌはもっとも大切な交易相手であり、その交易の独占権はなんとしても保持せねばならず、またアイヌの労働力も欠かせないものになっていたためである。島の支配が松前藩から幕府へと移行した際のアイヌに対するこの態度変化は、それゆえ、アイヌの社会に対して重大な影響を及ぼすとともに、その政治的自立を著しく弱めるものであった。アイヌを是が非でも単一民族という幻影のなかに取り込もうとするこの意志は、形質人類学の研究を条件付け、その結果、アイヌは衰退期にあるばかりか、滅びゆくことを運命付けられた「民族」とみなされるようになっていく。これに対して、アイヌの速やかな適応能力は、彼らの行動様式がその内部に自己の崩壊の種を宿していたかにみえる反面、その復活の種もまた宿していたということを逆説的に示している。アイヌたちは破滅を避けるため、妥協的な適応戦略を見出していた。政治家ついで大学関係者たちにより、1960年代の社会運動の隆盛まで保たれていた、滅亡を運命付けられた人々という受動的なイメージとは程遠く、アイヌの歴史はむしろ、その卓越した抵抗の力、適応の妙、そしてあらゆる試練の末に、彼らの歴史を世界的な先住民族の網の目に結び付けたその生命力によって特徴付けられるのである。こうして、2008年に至り、アイヌは日本の先住民族として認められ、その文化の継承が保障されるに至ったのである。
著者
Clercq Lucien
出版者
北海道大学大学院メディア・コミュニケーション研究院 = Research Faculty of Media and Communication, Hokkaido University
雑誌
メディア・コミュニケーション研究 (ISSN:18825303)
巻号頁・発行日
vol.71, pp.1-36, 2018-03-26

先の論文では、アイヌのアイデンティティの再表明において、虐げられたマイノリティ、とりわけアメランディアンとアフリカ系アメリカ人との対比がいかに重要であったかを考察した。たしかに、初期の政治的活動家たちの位置取りは、部落民や極左の活動家たちの行動に着想を得てなされたものではあるが、1970年代初頭に彼らのあとを継いだ若きアイヌの指導者たちは、長らく奪われていた基本的権利を回復するために闘う他の民族たちと自己同一視を図ったのであった。当時、混血がかなり進んでいたため、アイヌの若い世代は、社会的、民族的に自分たちが特殊であることを自覚していた。その特殊性は、日本的なものの荒波に揉まれながら決して失われることのない、独自の文化的ハイブリッドに裏打ちされたものであった。日本の介入がアイヌの社会にさまざまな危機をもたらしたことは事実である。とりわけ、日本の価値体系がより脆弱なアイヌの価値体系に与えた衝撃はアイヌの文化的基盤の一部を木っ端微塵にし、アイヌは日本人との共存を強いられることになったのであるが、それはアイヌにとって極めて困難なことであった。アイヌに残された唯一の道は、伝統的構造のいくつかを犠牲としながら順応することであった。日本の文化のうちには、アイヌがすでに慣れ親しみ、威信を高める目的で自文化のうちにとりこんでいた要素もあり、そうした要素を補償的に取り入れなおすことで、アイヌは完全な同化を免れたのである。異種交配の初期形態が胚胎したのはこうした葛藤を交えた状況下においてであった。しかし、植民地主義的過程がどんなに激しく進行しようとも、深部に秘められたアイヌの伝統的な宗教的・社会文化的構造が破壊されつくすことはなかった。また、伝統とのつながりを保とうとするアイヌの情熱や、歴史の転換点において新しい伝統を生み出そうとした若い世代の欲望などを考慮するのであれば、アイヌにおける異文化受容は部分的であったとみなしうるだろう。実地での体験が教えるところによれば、アイヌはつねに、日本の社会文化のなかから、そして他の民族から提供される豊富な文化的オプションのなかから、自分たちに役立つものを選別しつづけているのである。こうしてアイヌは、儀礼に関する記憶に基づいて歴史の再領有を行うという壮大なプロセスを始動させながら、アイデンティティの再構築に挑むことになったのである。その具体的な事例が、文化的な年中行事である二つの記念祭、すなわち鮭の神を祭るアシリチェップノミと歴史的英雄を祭るシャクシャイン祭りである。本論はその詳細について論じたものである。この二つの祭りは、今日のアイヌ文化における主要なイベントとして、アイデンティティの再構築や社会政治的復権を目指した弛まぬ努力を支える積極的な文化保存の思考と深く結びついているのである。