- 著者
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堅田 諒
- 出版者
- 北海道大学文学研究科
- 雑誌
- 研究論集 (ISSN:13470132)
- 巻号頁・発行日
- vol.18, pp.141-155, 2018-12-26
本稿ではジョン・カサヴェテス『フェイシズ』(Faces,1968)の作品分析をおこなった。従来の研究では,作家の伝記的事実ばかりが強調され,個々の画面に基づいた「ショット」や「カメラの運動性」の分析はなおざりにされてきた。したがって本稿では画面から出発し,作品のもつ豊饒さに接近したい。第1章では,本作の最も支配的なショット形態である「顔のクロースアップ」の機能と効果を分析した。カサヴェテスの顔=クロースアップは,物質性や触覚性,カメラの機械的な運動性が発露する場であり,とりわけ観客の能動的な見る意志を刺激する。第2章では,身体に目をむけた。『フェイシズ』における顔は,雄弁に何かを語ろうとするものの(たとえば人物の感情),結局何も語らないものであり,一方,身体はその寡黙さゆえに,図らずも主題があらわれる地点となる。「中年と若者」「中年の欲望」などの主題と身体はかかわる。第3章では,空間とコミュニケーションの観点から,顔/身体それぞれを考察した。一階と二階はそれぞれ異なる性質をもち,とくに一階では身体が後景においやられ,反対に顔が前景化することを明確にした。第4章では,映画ラストシーンの階段という中間的な狭間の空間と身体の関係を分析した。この特異な空間に座るリチャードとマリアを分析することにより,映画のいくつかの諸相,空間や時間性の混淆が生じることを明らかにした。階段というカサヴェテス的トポスでは,両極性が混在し,とりわけ身体において過去と未来の時制が呼びよせられ,同時的共存を果たしている,というのが本稿の論旨である。