- 著者
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水野 直樹
- 出版者
- 京都大學人文科學研究所
- 雑誌
- 人文學報 = The Zinbun Gakuhō : Journal of Humanities (ISSN:04490274)
- 巻号頁・発行日
- vol.101, pp.81-101, 2011-03
本論文は, 2009年に発表した拙稿「植民地期朝鮮における伊藤博文の記憶」(伊藤之雄・李盛煥編『伊藤博文と韓国統治』ミネルヴァ書房)の続編である。1932年日本支配下の京城に, 伊藤博文を祀る仏教寺院博文寺が建てられたが, そこで起こった最大の出来事は, 安重根の息子と伊藤の息子との「和解劇」であった。伊藤の死から30年後の1939年10月, 上海在住の安俊生と東京在住の伊藤文吉が京城で会見をし, ともに博文寺を訪れて合同の法要を行なった。それを報じた新聞記事では, 父の罪を詫びる安俊生とそれを受け入れて「内鮮一体」に努めることを慫慂する伊藤文吉の姿が強調された。この和解劇には, 朝鮮総督府外事部が深く関与し, 長年にわたって朝鮮独立運動を取り締まってきた警察官相場清, 安重根裁判の朝鮮語通訳を務めた園木末喜が安俊生の言動を左右する役割を果たした。その後, 安重根の娘夫妻が博文寺を参拝するという後日談もあった。「和解劇」とその後日談は, 総督府が植民地統治の成果を宣伝するために演出したイベントであったのである。