- 著者
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白石 太一郎
- 出版者
- 国立歴史民俗博物館
- 雑誌
- 国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
- 巻号頁・発行日
- vol.44, pp.21-51, 1992-03-31
古墳時代後期の6世紀に日本列島の各地で造営された墳丘長60メートル以上の大型前方後円墳の数を比軟すると,他の諸地域に比べ関東地方にきわめて多いことが知られる。律令体制下の国を単位にみてみると,関東では上野97,下野16,常陸38,下総11,上総28,安房0,武蔵26,相模0で,合わせて216基となる。うちに大王墓をも含む畿内地方でも大和20,河内12,和泉0,摂津2,山城5の計39基にすぎず,さらに吉備地方では,備前2,備中1,備後1,美作0の計4基にすぎない。また東海地方の尾張では12,美濃では7基を数えるが,尾張に多いのは継体大王の擁立にこの地の勢力が重要な役割をはたしたという特別の政治的理由によるものと思われ,東日本の中でも関東地方だけが後期前方後円墳の造営において特殊な地域であったことは明らかである。一般に前方後円墳は,畿内勢力を中心に構成されていた政治連合に加わった各地の首長たちが,この連合における身分秩序にしたがって営んだものと考えられているが,6世紀の関東地方では前方後円墳の造営に際してそれ以外の地域とは明らかに異なる基準が適用されたことになる。また小地域における大型前方後円墳の密集度からも,その被葬者は単なる領域的支配者としての地域首長であるばかりでなく,畿内王権がこの地方に数多く置いた子代・名代などの部や舎人などの地方管掌者としての性格をも併せもつものであったと考えざるをえない。関東地方に他の地域と異なる基準に基づいて数多くの大型前方後円墳が営まれた理由は,この地域が畿内政権をささえる経済的・軍事的基盤としてきわめて重要な地域であったこと,さらに畿内諸勢力の連合体としての畿内政権を構成する諸豪族がそれぞれにこの地域の在地勢力と結びついて支配の拠点をえようとした結果と考えられ,まさに畿内政権の構造的特質によるものと思われるのである。